10.《ネタバレ》 タランティーノ原案と知って鑑賞した本作品。次々と犯罪行為を繰り返すも、メディアによって神格化されるヤバイカップルの逃走劇を描く問題作。タランティーノ原案とあってのっけからタランティーノらしいシーンが続く。(トゥルーロマンスにも似ている)しかし、監督オリバーストーンはここに”人間に潜む暴力の根源”や”暴力を助長するメディア”といったメッセージ性や刺激的な映像を付加した。それがタランティーノの意図に反しており批判の声も多いが、私はこれはこれで全然ありだと好意的であった。
伝染する暴力。ミッキーは親からの暴力、マロリーも性的虐待を幼いころから受けていた。暴力は新たな暴力を誘発する。暴力が伝染する要因は暴力が人間の根源に存在しているからに他ならないのだ。我々は己の奥深くに凶暴性や攻撃的指向が存在することを自覚しなければならない。記者であるゲールもミッキーとマロリーの暴力に魅せられ、殺戮に参加した。ここで我々は暴力の伝播を目の当たりし、その異質性と不気味さを体感するのだ。ミッキーは殺人は純粋なものだと語る。倫理的な問題を取っ払い、根源に潜む暴力への衝動を解放させ、魂を自由にさせることができるからである。殺人は束縛からの解放であると主張しているのだ。つまり、彼らにとって数々の殺人行為は精神的自由を求めるための旅の一環に過ぎなかったともいえるだろう。彼の発言は犯罪を助長する可能性が極めて高い。皮肉にも、本作上映後には模倣犯が多発したという。監督の伝えたかった”暴力の伝染”が目に見える形で現れてしまったのだ。
また、ミッキーは己の内に潜んだ暴力的衝動を”悪魔”と表現している。その悪魔は愛によって制御されていると彼は語る。愛とは広義に解釈できる。ミッキーとマロリーの間の恋愛感情のみならず親切心や哀れみといった感情も入る。暴力的衝動が発露するか慈悲の心へと置き換わるかは相手への愛によって依存するともいえるだろう。こういった暴力の性質を監督はミッキーとマロリーというまさに”象徴的な暴力的存在”を描くことで投射したかったのではないだろうか。極めて残虐で恐ろしい殺人者にも悪の根源は存在し、突発的に無から生じた訳では決してないのだ。
あと、本作のタイトルでもある「ナチュラル・ボーン・キラーズ」について。直訳すれば”生まれながらの殺人者”。これはミッキーのセリフである。しかし、果たしてミッキーとマロリーはナチュラル・ボーン・キラーズだったのだろうか。人間は誰しも生まれながらのして暴力への衝動は存在する。ただ、それが発露して殺人者になるかどうかは生まれた瞬間には決定しない。発露するか否かには暴力の伝染による影響が大きくある。つまり、彼らは生まれながらの殺人者ではない。凄惨な過去が原因なのだ。それ故、病的なのは彼らではなく、本当の意味でのナチュラル・ボーン・キラーズなのだ。
しかし、アニメや画質、画面の色が入り乱れる映像の数々やコメディ風タッチ、タランティーノっぽい殺人のシーンなど自分好みのクセの強い映像の数々とこれまで書いてきたような真面目なメッセージ性という二つが完全に両立できているとはいえない。そういった意味で作品の一貫性に乏しい作品ともいえる。ただ、非常に実験的かつ刺激的であり暴力に関するメッセージ性、メディアの表現も秀逸であったため、高得点をつけた。