1.《ネタバレ》 スパイク・ジョーンズ監督の映画には、見かけの軽薄さや皮肉な笑いのなかに、いつも不思議なメランコリーがたゆたっている。見ているうちに、何だかこっちまでやるせないっていうか、切ない気持ちになってくるんである。それはたぶん、映画のなかで描かれる主人公の男たちが、誰もかれもみんな本質的に〈孤独〉でひとりぼっちであるからだ。
『マルコヴィッチの穴』のジョン・キューザックにしても、『アダプテーション』のニコラス・ケイジにしても、彼らは、誰かと一緒にいても、いや、一緒にいるからこそ〈孤独感〉がますます深まっていく。だから、懸命に相手のことを理解しようとしたりされたがったり、愛そうとしたりされたがったりする。逆に言うなら、愛や友情や思いやりとは、人が〈孤独〉だからこそ産み出され、育まれてきたものなのかもしれない。その、どこかウディ・アレンの映画をもっとキテレツ(!)にしたような神経症的なドタバタ劇こそが、「スパイク・ジョーンズ映画」の変わらない主調音なのだった。
この映画の少年マックスと、そのオルターエゴというか“分身”そのものである「かいじゅう」キャロルたちもまた、〈孤独〉であるからこそ、これ以上傷つくまいとして乱暴をはたらいたり、暴言を吐いたりしてしまう。そうして、余計に傷ついてしまうのだ。このあたり、原作絵本が“かいじゅう化していく少年マックス”を描くのに対し、映画の方は逆にかいじゅうたちの方があまりにも“人間的でありすぎる”ともいえる。みかけはオソロシクも愛きょうたっぷりなくせに、キャロルやその仲間たちは、ぼくやアナタのなかにもあってたぶん他人にあまり触れられたくない部分ーーそう“弱さ”そのものをむき出しにして、見せつけてくるのだ(ゆえに、見ていてけっこうツライ気分になってくるのも確かでは、ある)。
・・・結局、「かいじゅうたち」と一緒にいることで、自分の内なる〈孤独〉に向き合うことを学んだマックス。センダックの絵本ファンや、年少の子どもたちにはいろいろ“不満”もあるだろうけれど、不思議な陰影に彩られた独特の映像のなか、高度に内省的だけれど実にピュアな寓意劇として、この映画は、凡百のファンタジーとは一線を画するものだ。断固支持。