2.《ネタバレ》 原作P・ハイスミス、脚本R・チャンドラー、そして監督はA・ヒッチコック。豪華な顔ぶれというより、面子が濃すぎて空中崩壊しそうですが、実際、チャンドラーとヒッチコックはかなり折り合いが悪かったそうな。原作がどのように脚本化され、脚本がどのように最終的な作品に採用されたか、すみません全然把握してないんですけれども、この作品でも随所で見られる、いかにも「ヒッチコックあるある」なデフォルメされた演出シーン(「やり過ぎ」とも言う)が、何だかチャンドラーへの当てつけみたいに思えてきて。もちろんそんな訳無いのだけど、でも何だか嬉しくなってくるではないですか。そんな妄想を抱かせるのがまた、ヒッチコック映画のポテンシャルの一つなのではないかと。
冒頭、白い靴の男と黒い靴の男がそれぞれ車から降りて、駅に向かう。で、たまたま同じ列車に乗り合わせ、たまたま向かいの席に座り、一方の男がもう一方に馴れ馴れしく話しかけてくる。やがて男の話は恐るべき交換殺人の提案となり、当然のごとく断るものの、提案した男は勝手にそれを実行してしまう。提案された男にはアリバイが無く、追い詰められていき・・・というコワイ話。
二人の出会いは偶然でしかあり得ないはずなのに(まさにタイトル通り)、相手はなぜか自分のことを異常なほど知っており、自分を追い詰めていく、というのは、ちょっとドッペルゲンガーネタの変形のようにも思えてきます。実際、二人の男は、顔立ちは明らかに異なっているのだけど、背格好は何だかよく似ております。これで顔まで似てたら映画を見る側が混乱しかねないので、そういったことすべてを考慮したキャスティングなのかも知れません。いずれにしても、近くからあるいは遠くから、影のようにつきまとう男。テニスプレイヤーである主人公の試合で、観客たちがボールを追って顔を左右に動かす中、男だけがじっとこちらを見ている。だからそういうのが「やり過ぎ」演出だっての。面白いからいいけど。
男が主人公の妻を殺害する場面、地面に落ちた彼女のメガネに、歪んだ男の姿が映る。主の無いメガネだけがそれを目撃し、そのメガネを通じて我々がそれを目撃する。こういう演出の発想自体、歪んでますよね~。
夜、主人公と男が門扉を挟んで対峙するシーンがありますが、そこにパトカーが到着すると、主人公はつい、そこから隠れるように男のいる側へと回ってしまう。なぜ主人公が警察にすべてをぶちまけないのか、男のペースに巻き込まれるかというと、このシーンがあるから。男の側に立った、男の共犯者となったことを象徴するシーンだから。もう、逃げられない。
犯人は必ず犯行現場に戻る、という格言の通り(ほんまかいな)、クライマックスの舞台は、妻の殺害された遊園地へ。同じ舞台、同じシチュエーションが、作中で二度登場する。一種の変奏曲。今回は一体、何が起こるのか。
ここで、とってつけたように、大暴走するメリーゴーランド。はい、また「やり過ぎ」一丁いただきました。もう、絶対あり得ない状況の上、暴走メリーゴーランド上の格闘シーンが、やたら長くって、これ、このシーンにずーっと劇伴音楽つけろって、言われても、さすがに音楽が持たないでしょ、作曲家が困るのでは、と思っちゃうのですが、、、ちゃんとテンションが途切れない音楽がこの長いシーンに被せられています。ティオムキン自身が頑張ったのかアシスタントが頑張ったのか知りませんけど、いやほんと、作曲家って、エラいですね。
それにしてもこの暴走シーン、もはやメチャクチャなんですけれど、いやそれだけに、そのもたらす興奮たるや、無類のものがあります。まさに怪作にして快作。「やり過ぎ」大歓迎です。