2.“あなた”を理解したいのにすべてが混沌として理解不能。これは全世界、いや全宇宙すべての母娘と夫婦と家族と隣人、そして「私」自身の物語。
評判に違わず、なかなか“トンデモナイ”映画だった。
文字通りに破茶滅茶であり、映し出される各シーン、各カットの性質はチープで下品でグロくてワケわからんのに、結果的に心が充足し、涙が溢れている。
古今東西のあらゆる映画のオマージュが乱れ打たれる描写に対して“既視感”を覚えつつも、気がつくと、まったく新しい映画世界に放り込まれていた。それは、まさしく“新しい”映画のマジックと言っていい。
自宅兼用のコインランドリーと税務署のみで繰り広げられる極めてミニマムな舞台設定が、無秩序に広がる多元宇宙と、めくるめく精神世界を自由闊達に描き出していた。
近年“マルチバース”というキーワードが市民権を得ているが、藤子・F・不二雄の漫画で育ってきたものとして、この映画が描き出したそれは“パラレルワールド”という言葉のほうがしっくりくる。(F先生の短編漫画の傑作「パラレル同窓会」を読んでいると、本作の世界観と真理がもっと腑に落ちやすいだろう)
ともあれ、漫画よりもマンガ的な本作の表現方法はちょっと常軌を逸していて、決して万人受けする類いの映画ではないことは明らかだ。僕自身、そのフリースタイルぶりに半笑いを通り越して唖然としてしまった瞬間があることも否めない。
ただ、そのあまりに自由な振れ幅こそが、本作が表現するマルチバースもといパラレルワールドの本質だとも思える。
何もかもがうまくいかないストレスフルな生活を送る世界線もあれば、ふとしたきっかけでカンフー映画の世界的スターになるきらびやかな世界線もあり、一方では指がソーセージの世界で同性愛に思い悩むことも、子供が作った拙いボロ人形で終わる人生も、はたまた生物が存在しない世界の“石ころ”として日々を送る世界線もあり得るということ。
そして、その無限に分岐した世界線は、すべて繋がっていて、今この瞬間も、均衡(バランス)を保ち続けているということ。
「私」が今この人生を歩んでいるからこそ、同時に成されていないすべての可能性が存在し、そのすべては平行して流れ続けている。
ラストで主人公は、互いの気持ちをぶつけ腹を割った娘と別の道を歩むことを「選択」しかける。きっとその瞬間、それをそのまま選択した宇宙(バース)も生まれたのだろう。でも、この映画で映し出されている主人公はその選択を回避して、恥ずかしがる娘を抱きしめる。
それが「正解」ということではないし、その先が必ずしも「幸福」という話でもない。
ただそういう無数の選択の連続の上に、私たちのこの世界線は存在しているということ。そしてそれは唯一無二であるということ。
僕自身は、今年42歳になる。当然満足できることばかりではなく、年齢に応じた不安やストレスは尽きることはないけれど、相対的に見れば充分に“マシ”な世界線を生きているのだろうと思う。
決して裕福ではないけれど、家族がいて、好きな映画を見て、写真を撮って、お酒を飲む。そういうことをわりと自由にできるこの日々は、もはや代え難いとも思える。
ぽっかりと穴が空いたベーグルをそのまま食べるか、チーズを一枚はさむか、ハムをはさむか、ベーグルが見えなくなるくらいに何もかもを盛り込むか、もしくは食べきらずに途中で捨ててしまうか。
実際、それをどう食べるかは人それぞれだし、その人の自由だ。でも、そのベーグルが一つしか無いことが、変わることはない。
ならばやっぱり、たとえお腹いっぱいなることがなかったとしても、せめてやさしい気持ちで美味しく食べたいなと、至極普通のことを思うに至った。
分かっちゃいたけど、容易に語り尽くせるタイプの映画ではない。それこそパラレルワールドの数だけ、この映画に対する僕の感想も存在するのだろう。
1992年の「ポリス・ストーリー3」のミシェル・ヨー、1994年の「トゥルーライズ」のジェイミー・リー・カーティス、自分自身が小学生の頃に何度も見た両作で、主人公の世界的アクションスター以上の印象を残した二人の女優が、30年の年月を経てこのような形で共演(名演)したことにも、個人的に大きな感慨深さを覚えた。