2.サイレント映画は、決して「サイレント」なのではなく、伴奏や弁士が付いたり、結構、賑々しく上映されていたことは周知の事実でしょう。ところが、これを現在鑑賞するとなると、粛々としたまるで儀式のような中でスクリーンを見つめるか、あるいはひとりぼっちでテレビ画面とにらめっこという状況に限られることがほとんどで、結果的に、お勉強モードに突入してしまう。。。。これはサイレント映画の鑑賞としては、明らかに間違った、そして不幸な環境であると言えるでしょう。でも、こうゆう「不利」な状況にあっても、心を動かされる見事なサイレント映画のいくつかが、現在に至るまでちゃんと語り継がれていることも事実。お勉強モードを否定しておいてなんですが、本作は、こうした「不利」な状況の中で、なぜサイレント映画なるものが、僕たちの心を動かすのか、そして何が映画なのかという疑問に答える格好の教材になり得るのではないか、と僕は思うのです。芸術とは美の表現。表現には「言語」が必要です。すなわち、映画における映像は記号に置き換えられ、それはまた「言語」に置き換えられる。音楽にしても美術(絵画や彫刻など)にしても、全ては「言語」に置き換えることができ、それぞれが単独で語る力を有していると思います。ですから、映画の場合、物語を語るのに、台詞や字幕スーパーインポーズという直接的な「言語」がなくても、映像さえ存在していれば、芸術たりうるはずであって、本作のように映像のみで映画を芸術に仕立て上げることは十分可能なのです。映像は「言語」であり、それ自体、単独で語る力を持っている。さらに言ってしまえば、映画はその映像の芸術。その意味で、これは映画という芸術のエッセンスが凝縮されたような作品であり、その本質をズバリ射ぬいた大傑作ということになるのではないでしょうか。技術の進歩によって実に多くの種類の「言語」を映画に取り入れることが可能になった現在。そして、それゆえにあらゆる「言語」を詰め込み過ぎて映画の本質から離れてしまった映画が多い現在。そうゆう現在だからこそ、今だからこそ、この作品は高く評価されるべきだと思うのです。