4.上映が終わり手洗いに行った。鏡にうつる自分の顔をまじまじと見て、「老けたな」と思った。
そりゃそうだ。三十路を越え、結婚をし子供までいるんだから、ついさっきまでスクリーンいっぱいに映し出されていた高校生たちの“若さ”が、今の自分にあるわけはない。
あるわけないのだけれど、入り乱れる彼らの思いは、もはやうすぼんやりとし始めている記憶の甦りと共に、自分の感情の中に入り込み身につまされた。
きっと誰しもが、この映画に映り込む高校生たちの“誰か”と同じ“立ち位置”で、生活をしていたはずだ。
それが誰であったかなんて事は重要ではない。重要なことは、誰しもが「高校」という奇妙な「階級社会」においていつの間にか与えられた立ち位置で、もがきながら生きたということであろう。
高校生は大変だ。時に過酷なまでに。
それに対して一部の大人は、「実社会の荒波の厳しさ」を安直に強調するのかもしれない。
しかし、そんなものは比較の対象にはならない。
限られた経験値、限られた世界の中で、盲目的に自己を顕示し、また抑え込む。それをひたすらに繰り返し、葛藤を繰り返す。
それは先が見えない暗がりを、時に孤独に、時に手を取り合い歩んでいくようでもある。
でも、だからこそそこには、何にも代え難い輝きが存在する。
葛藤の果てに、「こいつら全部食い殺せ!」と高らかに言い放った映画オタクの主人公は、結果として何かを得たわけではない。
しかし、何も選び取れずフラフラと自分の成すべきことを定めきれずにいた幽霊野球部員は、逆光を背にした映画オタクが眩しくて直視できなかった。
それは、高校特有の歪なヒエラルキーが生み出した「光」だったのか「影」だったのか。
人それぞれ、誰に感情を移入するかで、この青春映画の「感触」は大いに異なるのだろうと思う。
面白いと思えるかどうかも、実際人それぞれだろうし、それでいいと思う。
ただ、きっと多くの人が、この映画を観て、自らのあの“限られた世界”で過ごした日々のことを思うだろう。
それだけで、この作品は青春映画として明らかな傑作と言える。