1.極限の覚醒を求め忿懣を文体表現として開花させ、自己内部の悪魔を露骨に剥き出し叫ぶ。覚醒状態には快楽と恐怖しか存在しない。また感情には平静だけではなく、平静を抱こうとすると邪魔をするかのように恐怖が抹消していき逃げ場を探させようとする。恐怖は悪辣した漆黒の闇であり果てなき実存世界に迷い誘うものである。極度の緊張状態で重圧がのし掛かれば公理を避け新天地を追い求める。不条理な過程には境遇や生活を労ることはけして出来ないが不定生活の巡り巡る環境の変化の中で秘めるインスピレーションは厖大だろう。しかしその反面に普遍を隔離され自身の存在定義は困惑させ唯心世界に引きずり込まれ精を狂気となる。のたうちまわり社会に対蹠し活きることの必然な重荷は散々と降り落ち人間を耐え難きものにする。狂人は世間に揶揄嘲弄され、多くの人間に理解を得られず虚勢の呵責をうけ逼塞してしまうのである。源泉の叫びは辟易する私を放擲して「おまえはもう見たのかい?絶対的な悪魔を」と呻吟する。もし自制が薄れ強靱な悪魔に包み込まれ峻厳の心理状態から平静の波に凭れることができれば、この上ない優しさと迸る歓喜に包まれることは必至だろう。伝説の小説家ポール・ボウルズの詞に「恐怖には顔がある。恐怖を友にせねばならない。恐怖と道徳の喪失に親しまねばならない。それができないというなら、恐怖は恐るべき敵となる…」とある。潤色した恐怖を諦観し、老練に至るまでそれを咀嚼し排してきた狂人が誇示するものであり、また不屈の耐性となる詞である。終幕に渡っては名も残さない人間が咆哮している映像が収斂されている。先人のビート精神は世代を越えて朽ち果てることなく根は延び拡がり世界を網羅し、人種や思想の隔壁は払拭して閉鎖的社会から解かれた魂を轟々と爆発させる。シュールな箴言は走馬燈の如く脳に刻み込めれ恍惚な思想世界へ導き、そして未開の世界へ奔走させる。似非な映画と違いドキュメント映画のもつ個に固執されず現実ある複雑な背景と不条理から生じる偶発的な人間味と苦が顕在していることである。それは何度観ても生々しく訴求し、癇性的にされた精を錆矢で貫き、その中に精悍で而今に活きる力が共在していることである。変則的な映画であるが今後これ以上に感銘を受けるものはないだろう。