1.わかっていたこととは言え、自分がこういう映画にヨワイこと、改めてつくづく思い知らされました。お涙頂戴の要素なんかまるで無いけど、映画観てる最中、もう涙が出て仕方が無い。それは、ひたすら運動エネルギーの巨塊として描かれる暴走列車のド迫力に、ただただ圧倒されるから(こういう映画を観てると“鉄チャン”の気持ちが少し理解できる)。そしてそのエネルギーの前には無力な人間の姿と、それでもなお暴走を止めようと列車に闘いを挑むその姿には、震えが来るほどの感動が。いやあ、暴走列車モノにハズレなし(例外はあるけど)。殆ど条件反射的に感動してしまいます(でも一部例外が)。以前、『暴走機関車』という映画がありましたが(メッチャ好きなんです)、本作は、この映画と、この映画の元になったクロサワ脚本の両方を合わせた感じ。暴走をどう食い止めるかに主眼が置かれている点はクロサワ脚本に近いけれど、列車の破壊的なパワーにこだわった描写は、コンチャロフスキーの映画版の方(四重連!)を思い起こさせます。D・ワシントンの仁王立ちの姿もJ・ボイトを思い出させるし。暴走列車モノ、最高です。アトミック・トレインなどは例外ですけど(しつこいってば)。さて本作ですが、映画中盤、列車の暴走の模様がテレビ中継によって描写されていくのが、いささか要領良過ぎるようで、何だかチャッカリしてる気もしたのですが、実はコレも意味がありそう。というのも、映画前半では「家族に“言葉”では気持ちが伝えられなかった」2人の主人公が、後半では、テレビという“映像”を通じることで家族との距離が縮まっていく、という、ちょいと洒落た仕掛けになっているのですね。また、運転席のミラーも重要な役割を果たしていて、もちろん暴走列車への闘いにおいても重要なのだけれど、主人公2人の関係をもこのミラーが表現していて、映画前半では不信の視線、後半では信頼の視線を表しているのが心憎いところ。ところで、デンゼル・ワシントンの役どころ、サブウェイ123の時とちょっと似ている部分もあり・・・そしてそしてこれもサブウェイ123の時と同様、列車の窓は、何故か濡れているのでした。