1.ホウ・シャオ・シェンなら然るべき位置にカメラを据えると、そのフレームの中で静かに恋人たちは佇み、あるいは緩やかに自然に、フィルムが回されているその時々の感情に応じて体を移動させるだろう。
しかし、この監督はあくまでも構図の中に立ち位置を設定する、役者たちに動き方を演出する。スクリーンの左半分を占める壁の中に役者たちを行き来させながら会話を成立させ、双子の姉妹は完璧な構図の中に立ち、カメラはその片方をフォローしながらパンすると、彼女は再び完璧な構図の中にやや逆光気味で立ち止まる。
それだけではない。映画の前半の主要舞台である城壁に似た壁、その見事なロケーション。客観ショットと主観ショットの錯綜、ラスト2ショットの時制を越えたつなぎ、トラックから顔を出す役者の動きとそのショット内でのタイミング、長く会わなかった父の不在、そして、父が経営する店で、父の愛人であろう女が登場する、その長い長い間。
つまり、過剰なる「演出」。
例えばカサベテスならば構図などどうでもよい、映画的な演出などどうでもいい、と言い放つだろう。最も大切なのはシーンシーンで醸し出される人間の感情なのだ、物語などは後からやってくるのだ、と。
ところが、である。この30そこそこの映画監督は、そんな映画史など知ったことじゃないようだ。
主人公の別れた彼女が踊るシーン、フラメンコ、従兄が差し出す金、主題をシンボライズする楽曲、街を遠ざかるカメラ。それらのあからさまな抒情を映画に導入するためには、余程の覚悟と勇気、そして才能が必要とされるはず。
しかしジャ・ジャンクーはカサベテスやホウ・シャオ・シェンが無効にしたはずの「演出」を楽天的なまでに信じている。それがいいことなのかどうなのか私にはよくわからない。ただ、映画の力への確信が「プラットホーム」をかくも感動的に、完璧な作品としていることだけは確かだと思う。
涙果てるまで泣いた。20世紀の追尾を飾る傑作。