1.小説と映画の最大の違いは何か。
それは「ページをめくる行為」にあると思っている。小説はいつでも読むのをやめられるし、スローダウンも後戻りも自由自在。しおりだって好きに挟めるし、余白に傍線引いたりメモも取れるし、その気になれば気に入らない場面の改変も(さほど)難しくない。
小説(というか物語)は「考える力」「想像する力」に依拠している部分が多いのだ。手短に言えば受け手主導のエンターテインメント。時として「洗脳装置」と揶揄される映画との最大の違いだろう。映画はどちらかと言うと演劇や音楽の流れであり、元をたどると祭事に行き着く文化だ。「その場にいるみんなで感じる/みんなで考える」のが映画の正しい接し方だと思う(DVDとビデオ鑑賞はまた別だけど…)。
んで本作。完全に《行間を読む》映画。その徹底ぶりと作劇の力は認めるが、その強引な「小説」ぶりにには辟易。完成度と反比例して好きにはなれない映画だった。
冒頭、ギターソロでつまびく「ムーン・リバー」が入る時点で、猛烈に世界が狭くなる。「これからしばらくは主観の映像です。本気にしないで下さい。でも人物像はよくわかりますよ」…と監督に囁かれているような感じ。
で、どこからこの物語に第三者の視点が入るかと思ったら、全然入らない。話の裏側は相当に陰惨で、憎悪と嫉妬が渦巻く犯罪ドラマのはずなんだけど、最後の最後まで二人の主人公である「うそつき」と「きちがい」の視点から語られるので、話は穏やかに、時としてエキセントリックに、明るく、オシャレに綴られていく。
そんな話を見るくらいなら、ヘンリー・ジェイムズの『鳩の翼』や『ねじの回転』を読み直すよオイラは。映像に行間は求めたくない。
DVDで自由に好きなだけしおりが挟めて、余白に書き込みもできて、表面を見ただけでどこまで鑑賞したか即座に見て取れる時代になったら、少しは印象が変わるかもしれないが…。
●追記:
本作は受け入れられないが、同じ大嘘映画『サンキュー・スモーキング』は楽しく受け入れてしまっている自分に気付く。これが「男である事」の限界なのか…映画レビューにおける、極めて微妙なボーダーを踏んでいる感じです。
●追記2:
完全にネタバレになるので小ネタ欄に入れますが、これ監督の私事で、かなり実体験入ってるじゃん…。