11.《ネタバレ》 1995年、松本人志は無敵だった。
どれだけ不遜な態度をとっても、それが自意識過剰にならないという自負があったのだろう。
テレビも舞台も文筆も胸を張って作るそれらは、全てが独創性を放ちつつ、空恐ろしい事に全てが笑いを含んでいた。
そして15年…松本人志はいったい何故、映画を作るのだろうか。
面白い奴だからって面白い映画を撮らなければいけないわけではない。
天才だからって映画が才気を放っていなければいけないわけでもない。
知らないのか?
もう松本人志は、強迫観念にやられているとしか思えない。
「何が悪いのか?」
オレは松本人志のブレーンだと思う。
大抵の人は知っているが、映画は鑑賞"中"ではなく鑑賞"後"が重要である。言葉遊びは好きではないが、とどのつまり芸術なのだ。
しかしブレーンと当人は、分かってないし分かろうとしていない。例え知っていても得策だとは考えない人達だ。
松本人志が松本人志であればそれで良いと思っている。
「だって面白いじゃん」「コレ理解できん奴がアホなだけやろ」と思っている。絶対思っている。
企画会議を見てみたい。接待麻雀みたいなんだろうな。『さぁ松ちゃん!哭け!上がれ!喜べ!褒めてくれ!!』
俯瞰で考えると、主演松本人志という時点で馬鹿げている。
「しんぼる」は悲しい悲しい創作物である。
言葉のキャッチボールだけで作られた儚さと虚しさに全身包まれている。
言葉なんて100の内99はノイズなんだ。知らないわけあるまい。
「ファウンテン 永遠に続く愛」が「少林少女」した様なラストにオレは泣いた。
2列後ろの人は、映画が終わった事も気付かんレベルで爆睡していた。
オレはまた泣いた。
「しんぼる」は確かに唯一無比の作品だ。後にも先にも松本人志しか作り得ない映画だろう。
しかしそれは、今や褒め言葉ではない。
なんて悲しい色やねん。