1.期待してたのに期待してたのに期待してたのに~ッ! …あああああこの悔しさをどうぶちまけてくれよう。とりあえず、交響曲に史上初めて「言葉」が紛れ込んだ第九のオハナシが、原語のドイツ語じゃなく英語で語られるのはどーかと思うんですが。
これは音楽映画ではなかった。少なくともベートーベン映画ではなかった。恋愛なき恋愛映画。クローズアップと超クローズアップを切り替えつつ進行する画面の語法は全編濡れ場の一大ポルノだと思った。
あの時期のベートーベンが「神」を口にするのは構わない。だがそれは「疾風怒濤」や「革命」や「市民」という18世紀末を乗り越えた後にやってきた、彼なりの苦い、猛烈に苦い悟りなんだ。『大フーガ』が、神のみに聞く事を許された最凶の俗悪作品となったのも、希望や挫折を繰り返した彼の前半生があればこそなのだ。
全てを嘘っぱちで固めて無茶苦茶な音楽解釈をした《全編シャレ》の『アマデウス』は罪の程度としては軽かった(けどやっぱりオリジナルの独演舞台でこそ成立する仕掛けだと思う)が、今回のコレは中途半端に現物へ肉薄しているだけに、逆説的に薄っぺらい。
その大作曲家から薫陶を受け(?)た主人公が最後に到達する境地は、なんとベートーベン当人じゃなくマーラーがやろうとした事&ケン・ラッセルが『マーラー』でやってしまっている映像。
監督。時代を100年間違えてます。ベートーベンがインストゥルメントに「言葉」というメッセージを入れたのは、マーラーが和声を崩してまで異質な旋律を立たせたソレとは違うのです。ベートーベンの音楽には《自分》や《人間》や《生命》はあるけど、《自然》はないのです(キッパリ)。