1.《ネタバレ》 資産家である松村家では、娘・伊都子の誕生バーティーが行われていた。時を同じくして、彼女の恋人で新聞記者の大木民夫がタクシーでパーティーに向かっていた。その道中、タクシーの前に女がフラリと歩いてきた。避けきれず轢いてしまったと思った民夫と運転手はタクシーから降りるが、そこには誰もいない。パーティーではケーキを切ろうとした伊都子が誤って手を切ってしまう。ケーキにポタポタと落ちる血を見て複雑な表情を浮かべる父・重勝と執事。しばらくして、松村家に先ほどの女が現れる。「美和子、お前は美和子!!」。女は20年前行方不明になった重勝の妻で、伊都子の母の美和子だった。年月の経過にもかかわらず、美和子は若い時のままの姿だった…。
全体がとにかくチープで、時間をかけず低予算で作られたことが見えてしまう一作。新東宝の末期を象徴する一作といえるかもしれない。
本来は、低予算ならば作品のあらゆるところを絞り込んで作るべきなのだが、逆に本作は色々な要素を取り込みすぎたために、却って安っぽさが目につくこととなってしまった。具体例を挙げていこう。
まずは設定。タイトル通り吸血鬼という題材を掘り下げてシンプルに勝負すれば良かったのに、そこに狼男、海坊主、小人、謎の老婆、そして天草四郎といった、日本で怪しげとされる東西の様々な題材が乱暴に詰め込まれている。スタッフのサービス精神の現れかもしれないが、怖いものを集めたからもっと怖いでしょ、見どころが増えたでしょ、といった作りは、鑑賞者にお約束のようなものを押し付けたような、甘えたものになっていると思う。
甘えは物語にも及ぶ。本作の吸血鬼は天草四郎その人である。島原の乱が失敗し、籠城していた天草は、一緒にいた娘・勝姫の生き血を吸った。それにより天草は死ねなくなり、乙女の血を求めるようになったという。そしていつの頃からか、島原にある岩山の地下に西洋風の巨大な住み家を作り、手下の小人や海坊主、謎の老婆と住んでいるのである。
さらに天草は20年前、重勝と九州旅行に来ていた美和子の意識を遠隔操作で操り、彼女を引き寄せた。そして何故か20年経って、年を取らなくなった美和子は、記憶のないまま東京まで戻ったのだった。
…書いていて頭が痛くなってきた。ここまでの記述から、いかに本作がいい加減に作られているかがはっきりと分かったからだ。物語に整合性がない、必然性がないし辻褄が合わない。シーンそのものに大きな意味はなく、その場限りのシチュエーションの意外さやインパクトを優先に作られているのだ。
さらに、撮影に関しても手軽に済ませてしまっているのが分かってしまう。その最たるものが、人間と妖怪の最終決戦(?)のシーンだ。この場面は、先述の島原にある岩山の地下が舞台なのだが、何とその山には雪が積もっている。明らかにロケ地が九州ではないのだ。しかもカットが変わると雪の量が増えたり戻ったりする。おそらく天候の恢復を待てずに、関東近郊の山で撮影したのだろう。カットつなぎに矛盾が出るのを承知の上で。
そういえば本作では、これ以前のシーンでも、人物の吐く息がはっきりと白く見えるカットがある。やはり冬場の撮影だったのだろう。
ちなみに本作の公開日は、ウィキペディアでは1959年3月7日とあるが、手元にあるDVDの作品解説には1959年7月公開とある。どちらが正しいかは分からないが、いずれにせよ、スケジュールを考えれば冬に撮影されたのは間違いないだろう。
と、ここまで本作の色々な齟齬を挙げてきたが、題材が題材なので、お化け屋敷感覚で観れば結構楽しめるかもしれない。たとえば、吸血鬼役の天知茂から醸し出される妖しさやダンディズムは魅力的だし、小人の和久井勉が画面で動き回る姿には、作劇上大きな必然性がなくても、インパクトだけは十分にある。差別の温床になるからといった良識によって、現在ではメディアで小人の姿を見ることは殆どなくなってしまったことを考えると、本作は貴重な作品なのかもしれない。
インパクトという意味では、美和子を演ずる三原葉子の魅力も挙げなければならない。豊満な肉体と婀娜っぽい雰囲気を持ち合わせる彼女の存在そのものが、本作の持つ淫靡な雰囲気を生み出している。天知演ずる吸血鬼に燈台の底部でいたぶられてあえぐシーン、絵のモデルとしてセミヌードで横たわるシーン、そして、下着にハイヒールという格好で吸血鬼の手によって蝋人形にされた姿、どれもかなりエロチックで、本作の大きな見どころとなっているのは間違いない。
本作への結論。映画としてみると破綻だらけで、作品としての評価はかなり厳しい。だが、公には口にしにくい、いわばアングラな魅力は確かに存在する。カルトムービーと位置付けるのが妥当だろう。