11.この作品が、人間の持つ悪魔性・不寛容・残酷さをテーマにしていることを考えると、この作品を見た原作コミックファンの怒りというものはすでに作中に予言されていることになる。とは言え、それは一種のマッチポンプなので、本当に予言と呼んでよいのかどうか、物事の因果関係を捉える際には注意が必要である。
そもそも、いくらファンが拒否反応を示したところで、映画に永井豪本人が出演している、という「お墨付き」を得ているのだから、周囲がとやかく言っても仕方がないのだけれど、『日本沈没』に登場した小松左京がやたら嬉しそうだったのに比べ、永井豪の表情がやたら「心配そう」に見えてしまうのは、気のせいか?
いずれにしろ、結果的に誰も止めることができず、こんな作品が出来上がってしまった、という事実は動かせない・・・。
正直言うと、この作品、今まで見たことなかったんです。興味が無いというより、むしろ、積極的にスルーすべき「接点を持っちゃいけない」地雷作品だと思ってたもんで。だもんで、監督が誰かも知らず、最近になって「えっ、まさか、那須博之だったのか」と知ってしまい、こうなると興味が湧いてくるではないですか。興味と言っても、作品に対してというより、どうしてそんな無茶な起用が行われたのか、という背景の方に、ですけれども。
それはともかく。
いろいろと、意表を突かれました。まさか、タレちゃんが登場しないとは。
ってのはどうでもいいですが、まさか、フルCGのデビルマンがチョイ役で、基本は若手俳優が上半身ハダカでペインティングしてるだけの「デビルマン(これが?)」だとは。ゴメン、本当にゴメンね、だけどコレ、貧相と言わずして何というか。
撮ってて、あるいは編集してて、マトモに物語が繋がっていないことに気づかないはずは無いのだけど、どうしてこんなツギハギのパッチワークみたいなオハナシになってしまうのか。それは、繋がりを無視しても何か描きたいものがあったんだろう、と思いたいところなのですが、それが何なのか、見つからず。(見つからないと言えば、出演者の中に名前があった男色ディーノは、どこに出てたんだっけ?)
こういう作品はよく、「ツッコミどころ満載」とか言って揶揄され、満載なんだったらそんな一言で片づけずに片っ端からツッコんであげたらいいんじゃないの?とも思うのですが、たぶん、それって、ノーガードで迫ってくるボクサーに対してはかえって、どこに打ち込めばいいのか、パンチを出すことを躊躇してしまう、みたいな感じなんじゃないでしょうか。
そういう、ノーガード戦法の作品です。これは。
でもまあ、日常から終末論的な世界観への移行、という独特の雰囲気は、それなりに味わえるのではないでしょうか。
宇崎竜童・阿木燿子夫妻を「日常」と呼んでよいのかどうかはともかく。