2.《ネタバレ》 感染する癖なども含め、真の家族とは遺伝子的な繋がりではない、と充分なほどにこの映画は家族の絆の強さを描いているのかもしれない。ただ問題は家族の絆ではなく、家族の社会における位置だ。
この秩序ある社会でひとを殺した時、どんな理由があろうとも罪となり罰を受ける。それを社会が正当化することはあり得ない。もし正当化出来るとすれば、唯一それはひとそれぞれの思考の中でだ。それはエゴイズムとも呼べるだろう。
個人的な感情からすれば、主人公たちの殺人を許せるだろうし、罰を受ける必要性も疑うだろう。しかし倫理観に基づく社会の秩序は決してそれを許さない。感情論だけで最も正しい道徳を歪めることなど許されないのだ。ひとはひとを殺してはいけない、これが事実だ。
この映画はそういった秩序に対してエゴイズムで押し切ることに抵抗を感じている。だから社会の秩序を逆なでしないよう泉水がすべてを台詞で説明した上で春の自首を否定する。しかしこれは大きな無駄だ。何故なら、これは新聞やテレビなどでしか事件の側面を知らない現実ではなく、映画であり観客はすべてを見て知っているのだから、春と泉水の行動や感情を知っているし、彼らの感情論のエゴイズムをも理解しうるだろうからだ(勿論理解出来ない人もいる。そしてそれが正しい社会の秩序だ)。だからこれは明らかに社会の秩序に対して予防線を敷いた上での生温い結末なのだ。
母親を強姦した男(この男が殺されるべきだと徹底された悪として具象化され過ぎだ)を殺したことを開き直れということではない。ひとを殺したという事実を背負った重力を感じずに生きることなど不可能であるということの表象が見たいのだ。重力を無視した清々しい結末などいらない。家族の絆としての重力でこの物語の幕を閉じていいのだろうか。(この地上で生活している限り=この社会の中で)ひとは重力に逆らって生きることなど不可能だ。その重力を無視することはこの社会や秩序から逸脱して生きることを意味する。
彼らは「最強の家族」ではなく、この社会から最も「孤立した家族」となった。もしそいう結末ならば、それすらも恐れず生きていくのだという強さが必要となるだろう。しかしそういう映画にもなっていない。結果、生温い家族の絆の映画となった。
また、映画は時にエゴイズムで社会の秩序を押し潰せるのだと思う。