18.《ネタバレ》 本作は超能力を主なモチーフとして、これと相性のいいオカルティズム、そして、ある時は世紀末という言葉から連想され、またある時は世紀末と混同されながら制作当時にうっすらと膾炙していた終末論が混ぜ合わされて作られている。
上映当時はこういったモチーフが実感を伴って受け入れられたかもしれないが、それは本作をエンターテインメントから遠ざけ、怪しげなものにしてしまっている。こういった要素は企画段階で入れられたのか脚本で入れられたのかは分からないが、いずれにせよスタッフの様々な意見を取り入れすぎた感がある。こういった思想を好むスタッフがいたのだろう。
主なモチーフである超能力の描き方にも不満がある。超能力には様々な種類の力があるが、サイオニクス戦士が力を合わせて幻魔の刺客と戦うシーンにおいて、誰がどんな能力を持っていたり発揮したりしているかが分かりやすく示されず、個々の戦いぶりが印象に残らないのだ。「すごかったけど、何がどうなったかわからない」状態になってしまっている。超能力という、何でも出来てしまうモチーフを違和感なく描き切るのは難しいのだろう。
それでも、たとえば『バビル2世』のように、超能力をシンプルに分かりやすく描いて印象をきちんと残す描き方もあったし、あるいは『斉木楠雄のΨ難』のように、超能力をとことんロジカルに描き、鑑賞者に違和感や疑問を与えない描き方などが出来ていれば、本作における超能力を今以上にしっかり実感出来るはずだ。
本作には、家族愛や隣人愛など、キリスト教的な愛の定義も取り入れられている。劇中音楽として、バッハのカンタータ第140番第4曲が使われているのもこれの象徴ではないだろうか。こういった要素は悪くないが、残念ながら本作では過剰過ぎる。たとえば、サイオニクス戦士の一人・ルナを導く「宇宙意識のエネルギー生命体」のフロイは言う。「地球人には希望、愛と友情の連帯、至上至高の価値を求める心がある。(後略)」と。また、主人公・東丈の姉である三千子は、丈の超能力で電気がともり、乗り物が動く夜中の遊園地でこう言う。「丈のことならどんなことでも信じられる」「あなたを支えられるのは愛だけ」「前世から丈のことを何でも分かってる気がする。もちろん来世も」。上映当時の風潮が影響しているのかもしれないが、こういった説教臭さは、本作が目指したであろうエンターテインメントをある意味阻害するものだ。こういったテーマは、劇中で声高に唱えるものではないと思う。
何よりも本作をエンターテインメントから遠ざけている大きな要素は、あちこちに目立つ段取りの悪さだ。たとえば、丈は冒頭で彼女である淳子に振られてしまうのだが、その時の淳子の言葉は「丈のお姉さんにはかなわない」だ。この時点では先述の丈の姉・三千子は登場しているものの、具体的な性格は描かれていない。何が「かなわない」のかが分からず、我々はここでは実感が得られないのだ。のちに、ルナが丈の深層心理に入り込んだ時に、姉が丈にとって大きな存在だとはじめて説明されるが、それも具体的ではなく、ここでも我々は置いてきぼりだ。結局、我々が姉の偉大さを知るのは、彼女が死んでしまった後のこととなる。
ニューヨークを洪水と劫火に襲わせてスペクタクルを描く一方で、東京をうやむやのうちに沙漠にしてしまったのもすっきりしない。ニューヨークと東京の状況を正反対にした方が、我々のカタルシスが強く得られたに違いない。
丈の超能力が突然使えたり使えなくなったりするのにも萎えてしまう。超能力を駆使する、強くてカッコいい主人公に我々は興奮するのだ。超能力を過剰に使い過ぎてしまい調節が出来ていないから、と後半で説明はあるが、鑑賞者の心を一度興奮させたら、それを維持させる展開にすべきだと思う。
要らないシーンや冗長なシーンによってダレてしまったり眠くなってしまったりすることも多かった。たとえば、超能力が発現した丈が吉祥寺の商店街でゴミのポリバケツの蓋をフリスビーのように回転させながら飛ばすシーンや、帰宅してモーツァルトのレコードを聴きながら部屋の物を浮かせるシーンは、吉祥寺に着く前の電車内で新聞やスカートのすそを超能力で浮かせているので不要だ。
また、姉が二匹の幻魔の刺客に襲われるシーンも長すぎる。服の左肩部が破れるエロチックな演出まであるが、これも中途半端で、観ているこちらが何だか恥ずかしくなってくる。
あとは火山が噴火した後に丈が動物達と森を彷徨うシーン。生きものの大切さを描きたかったのだろうが、これも不要だ。それまで人間は容赦なく殺しておいてこれではバランスが取れない。
作画も含め、作品そのもののインパクトは認めながらも、不満ばかり書き連ねてしまった。こんなはずではなかったのに。