2.《ネタバレ》 ダリオアルジェント監督の作品を久々に観賞した。
残念だと思ったのはダリオアルジェントらしい狂気と異端ぶりがなくなったこと。
クセのあるB級っぽさが抜けてしまいなんとも面白みがない。
監督のセンスがほとんど見られない。
なんともスタイリッシュなサイコサスペンス風映画だ。そこに個性はない。
ダリオアルジェント監督は他の監督よりも映画と音楽との結びつきに重きを置くのだと思う。
それが変態じみていて強く、性癖のような気がする。
・・・検死官の男のハイテンションぶりがちょっと面白い。
社会的に暗い場所にいる人間をハイテンションに描くというのは日常の奇妙なアンバランスさが出て効果的です。
安易かもしんないけどそれを堂々とやるのは巨匠らしい度胸だと思う。
その死に包まれた場所で検視官の愉快さは生と死の距離感を不思議なものにする。
死体の迫力が普通の映画とは少し違う。
ダリオアルジェントの映画にはエロスと恐怖、そして死がある。
とくに死とエロスが密接にからみあう。
“ゲーム”にも死やエロスが寓意的に込められている。
本来のゲームとは何か?そこらへんをこの作品は少し探っている。
この監督はゲームの中に流れる魔力みたいなものを作品にしたと思う。
憶測でいうのもなんだが監督は美女の恐怖する表情を見ることで性的な快楽を覚えるタイプの人ではないだろうか。
作品を見ててそう思った。
美女に対する独特の考えが作品にも表れてるみたいだ。
男性主人公ともいえるジャンレノ風の男はたぶん監督の嫉妬をかったのではないか。
(ここからの文章はどうやら自分がこの映画のタイトルをデスゲームだと勘違いして書いてるらしい)
最後に美女は妊娠する。
デスゲーム(死の遊戯)の果てにあったのは生命の誕生だったというところに、生と死の対比があると思うが、ゲーム(遊戯)という言葉には性的な意味も浮上してくる。
デスゲームを仕掛けて楽しんでいるのは監督で、もしかすると対戦相手は観客かもしれない。
そういうところに最近?流行のソリッドシチュエーションの影響がみられるのかも。
恐怖とグロテスクを題材にする映画監督のだいたいはサドでありマゾでもある。
(2011年の映画メモをもとにレビュー)