2.《ネタバレ》 オリジナルは、何度も繰り返し見た大好きな作品だけに、役者としてはたいしたキャリアのないふたりを主役にすえて、だいじょうぶか? という思いはぬぐえなかった。だが、元の作品への思いをぶちこわすようなことはない、という評が多かったので、勇気を出して見てみた。
主演のふたりの芝居にはまったく違和感なく、これはこれで、よくできた小品であることは間違いない。難病ものというベタな題材を、抑制のきいた美しい恋愛映画に仕上げていると思う。
しかし、やっぱりホ・ジノ版と比べてしまうわけで、セリフ、カット割りまで同じ場面がたくさん出てくるところを見ると、こりゃ、ほとんどホ・ジノの手柄じゃないか、という気もする。
韓国と日本の地方都市の雰囲気というのはよく似ていて、舞台を移してもあまり違和感はないのだが、ただひとつ「おじさん」という言葉の扱いだけは、ちょっと日本語にそのまま移すのは無理だったかな、と思う。韓国版では、シム・ウナがハン・ソッキュを最初「アジョシ(おじさん)、アジョシ」と連呼するのだが、韓国語の「アジョシ」というのは、日本語の「おじさん」という言葉より、「中年男性」という意味が薄いのである。だが、日本では、20代の女性が、30代の男性に向かって「おじさん」とは言わないよね、ふつう。子供じゃあるまいし。
もうひとつ、似ているけど違う点は、ガラスを使ったシーン。オリジナルと同じく、ガラスごし、カメラのファインダーごし、というシーンが多用されているのだが、オリジナルで感じた意味、つまり、生のただ中で輝いている女性と、死により近いところにいる男性との間の透明な壁、という印象はずっと薄い。ラスト近く、遠くに見えるシム・ウナの姿を、彼女にはそれと知られずに、ガラス越しにハン・ソッキュが指でなぞる、という哀切なシーンがなかったからだろうか。
ホ・ジノ版との最大の違いは、音楽だと思う。韓国版のほうが、ずっとセンチメンタルな曲を使っているのだが、こちらは、少しユーモアを感じさせる、軽くやさしいギター曲が使われている。韓国映画では、悲しい話に悲しい曲をつけてもあまり違和感がないのだが、邦画でそれをやったら、安っぽくなってしまう。そのへんのはまり具合は絶妙で、山崎まさよしのセンスには感心した。演技もよかったが、音楽のほうもたいしたものである。