1.《ネタバレ》 原作漫画の第一巻を購読したは、ちょうど10年前。その後単行本を6巻まで買い進めたところで、購読がストップしていた。そして今年アニメ映画化された本作の「前章」を鑑賞。前章で描かれたストーリー展開は、ほぼ原作で読み進めていたところまでだったが、ラストは映画独自の前倒し展開もあり、「後章」への期待が最大限に高まっていた。
「後章」の鑑賞前に、未読だった単行本の残りを最終巻まで読み切ってしまおうかとも逡巡したけれど、「前章」のアニメ映画としての出来栄えは想像以上に素晴らしかったので、このまま原作漫画の結末を知らぬまま、映画作品としての「後章」を堪能しようと思い至った。
……実はこの映画レビューを書き始めた時点では、既に単行本を最終巻まで買い揃えて、原作を読み終えている。
そのことを踏まえて、映画「デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 後章」に対する結論をまず言ってしまいたい。
正直、「残念」の一言に尽きる。
アニメーション作品としての全体的なクオリティは、「前章」と同様に精度が高く素晴らしいと言っていい。作画的な素晴らしさは勿論、やっぱり特筆して良かったのは、二人の主人公を演じた幾田りら&あのちゃんの表現力だろう。漫画作品のアニメ化として、そのクリエイティブにおいては間違いなく成功していたと思う。
だからこそである。もう一度言うけれど、「残念」だ。
浅野いにおによる原作漫画を読み終えた後では、この「後章」に対して、「デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション」の漫画世界を描ききっているとはとてもじゃないが言い難い。
単行本の最終巻(12巻)を読み終えた瞬間、ちょっと整理がつかない「呆然」とした脳裏の中で渦巻いたものは、独創的なSF青春群像劇の帰着に対する充実感と、映画の結末に対する圧倒的な不可解さだった。
映画の結末は原作と異なるということは知っていたし、漫画と映画という性質がことなる媒体において表現方法やアプローチに差異が生じてしまうことはある程度仕方のないことだとは思う。
それにしても、何故、どうして、原作漫画の最終巻をほぼ丸ごとカットしてしまうという「暴挙」に至ってしまったのか。
原作漫画の後半の顛末を未読状態で「後章」を観終えた後も、「ああそういう終わり方なのか」と、いくばくかの尻切れトンボ感はあった。
世界の終末と多元宇宙を描き、大風呂敷を広げたストーリーの収束としては、やはり物足りなかったし、この映画の結末をハッピーエンドと捉えるべきなのか、それともバッドエンドと捉えるべきなのか、とてもモヤモヤした感情が残った。
原作漫画ではもう少し納得のいく結末があるのかもしれないと読破し、前述の「呆然」に至る。
そこにあったのは映画の結末に物足りなかった“ストーリーの収束”どころではなかった。
少女から大人になる“彼女たち”の過程における“ありえたかもしれない未来”、または、“今この現実の裏側に何層にも存在する別の現実”、そのすべてに存在する“彼女たち”の刹那的な輝きが溢れ出していた。
見紛うことなき世界の終末と、一人の少女の中に存在する多元宇宙の中で、無限に広がる彼女たちの絶望と希望に打ちのめされた。
それは、この物語が終始描き連ねてきた醍醐味であり、「見事」と言っていいSF的な帰着だった。
というわけで、原作漫画を読んでしまい、その結末に衝撃を受けてしまった以上、それを「無視」してしまったこの映画を評価するわけにはいかなくなった。
どういう意図や経緯で、「後章」の結末に至ってしまったのか、そうせざるを得なかったのかは知る由もないけれど、もし可能性が少しでもあるのならば、「新章」として原作の結末をこのアニメーションで描ききってほしい。と、切望する。