2.ほとんどの証言者は男であり、彼らが口を揃えて言うのは、由美香の男性性についてだった。ゴーケツだった、とか。男のスタッフに囲まれて女性性を売り物にする仕事をしていた彼女は、オヤジ化して対さざるを得なかったのか。女性関係者では銚子でひとり登場しただけで、彼女はいたって影が薄く、男性の陰に隠れるように「女性的」にふるまっていた(この銚子の寂れたシーンはいい)。たしかにこういうエロ業界では、女優はうたかたのように通り過ぎる者であって、過去の証言者を探すのは難しいだろうし、探し当ててもインタビューに応じない可能性も高い。だから非常に男性に偏った証言になってしまう。そのなかで、今はもういない由美香だけが、どんどんオヤジ化されてイメージされていく。そこらへんが面白かった。男たちのイメージの中で、彼女はある種の祭司に祭り上げられていくが、それでいいのだろうか。彼女はほかのうたかたのような女優とは違った、っていうことが強調されていくが、小遣い稼ぎでチョコチョコっと業界を通過していった女性群たちのエネルギーこそ、もしかするともっと注目すべきものだったのかも知れず、うっかり業界に残ってしまいオヤジとなって死んでいった由美香さんは、こう祭り上げられるよりも、別の視点で見るべき犠牲だったのではないか、という気持ちもちょっとする。この映画が男のみの視点になってしまったことからくる単純さを感じた。もっとも男にもドラマはあり、子どもの出産の日が撮影日だった、という男優の話など面白かった。子どものためにも仕事に精を出さねば、とセックスシーンに励む。セックスと出産と子育てという本来哺乳類として密接に繋がっているものが、ずいぶんややこしい遠回りな関係になってしまっているおかしさ。そして「ラストシーン」。以上のような理由で、これは男だけの身勝手な祝祭でしかないと醒めて思う一方、関係者一同が揃ってくるとそれだけで、映画ならではの「たむけ」として心動かされてもしまうのだった。