2.《ネタバレ》 「まあ大丈夫だろう」
「騒ぎすぎ」
「格好付けるなよ」
「知ったかぶっちゃって」
「これくらい」
「気持ち悪い」
「面倒くさい」
こう言った雑音が、その日所々から聞こえた。
「落ち着こうよ」
「気をつけないと」
「大変なことになったらどうするんだ」
「何かおかしいほどじゃない?」
「どうなっちゃうんだよ」
それでも一様に、誰もが心の中で何度も、何度も繰り返して、口の中で唱えるようにつぶやいた。
「大きいぞ」
我々が住む東京は、今から考えれば絶望的な地震が襲って何もかもが崩れてしまった、と言うことは無かった。それは東北でも同じようなことだったかもしれない。だけど、その「思ったより揺れていない」と言う事実は人を急速に蝕んだ。油断が、である。
あの日、仕事を途中で切り上げて国道一号前のレストランでだらだらと、帰るか帰らないか、止まってしまおうか明日休んでしまおうか等とまだ明るい窓の外を眺めながらひたすらおしゃべりに興じた。
しかし、異様な光景がずっと止まらずに繰り返しそこにある事に段々と気付く。
人の列がいつまで経っても途切れない。一人が気付くと、そこに居る何人もが「あ」と声を上げる。一斉に帰宅した我々も、窓の外の人の列もどうという予定も無く出てきてしまったのだった。
このまま歩いては帰れないと言う人を残して、比較的近所に自宅のある私は群れの中に紛れて見慣れた交差点まで一緒に歩くことにした。
水田に流れ込む津波や燃える街などのリアルタイム映像が止むこと無くテレビで流れ続ける。次の日には原発が爆発してしまった。もう生きていけないんじゃ無いだろうか。とすら誰もが思った。だけど、生きてる。もう二三台原発が爆発しても私たちはきっと生きてる。だから、今はまだ諦める時じゃ無い。
地震や原発がある人がその人であると形作る決定的な物を壊してしまって、その人はその人じゃ居られなくなってしまった。死んだら何もならない、そんな気持ちを伝えてしまうと自分が残酷な人間になってしまう。でも、もう完全な手詰まりをそこに見とがめてしまったら、やはり人は自分の命を絶つ。
母親は生き残って、狂ったような生き恥を晒して、護っていたのは何だろう。少々のセシウムから子は護れても、狂ってしまったお母さんからその子を護れない。
色々な物が、そう言えばボロボロになってしまった。