3.自分自身が、「親」という存在になって9年半。
この12分の短編アニメに登場する「娘」は、愛娘とほぼ同じ年頃だ。
無論、悲しくてやりきれないし、理不尽さに対する憤りに心が張り裂けそうになる。
映し出される両親の虚無感は、極めてシンプルだけれど情感的なアニメーションによって、静かに、ゆっくりと、鑑賞者の心をも覆い尽くした。
この20年あまり、同様の悲劇のニュースが、かの国から絶えることはない。
自分の子が生まれてからも、幾度となく、無差別な銃乱射によって理不尽に奪われた子供たちの命を知る度に、とても他人事とは思えず身につまされてきた。
この短いアニメーションの中では、「惨劇」そのものが映し出されることはない。
ただ、大きな“星条旗”の下で、凶弾と子供たちの叫び声が響き渡る。その「意図」は明らかだろう。
「If Anything Happens I Love You(愛してるって言っておくね)」
この短いメッセージを、誰が、誰に対して、どのような状況で伝えたのか。
それが明らかになったとき、堪えてきた涙腺は一気に決壊した。
12分という短い時間は、必然的に“悲しみ”の感情でほぼ埋め尽くされている。
でもこのアニメは、ただ悲しいだけ、ただ辛いだけの作品では決して無い。
彼らにとって何よりも大切な娘を失ってしまった喪失感は、絶望と共に深まると同時に、彼女が確かに存在したことも確実に浮き彫りにしていく。
転がったミートボール、おかしな壁の修繕跡、Tシャツの残り香、思い出の写真や音楽、そして、彼女と過ごした記憶そのもの。
彼女の短い人生の中の無数の思い出は決して無くならず、思い出すことがまた思い出となっていく。
悲しみが消えて無くなることはないけれど、それでも生きていく。
人間は、そういうふうにできている。