2.《ネタバレ》 地下鉄サリン事件で罪のない人を不幸のどん底に陥れたオウム真理教。サリン事件の後、教団に残された彼らは痩せていた。それに対し、麻原教祖は誠に肥えている。麻原教祖は子孫を作り、体は肥えて、好きなことをやっている。およそ、仏教の唱える俗物や本能を遠ざけるそれとは真逆のことである。なのに、末端の信者達は、好きなことはやってはいけないと教えられ、それを日々守って暮している。ここにまず矛盾がある。サリン事件の非を認めようとしない信者達の姿勢にも、無理を感じる。ところが、刑事に職務質問をされ、因縁をふっかけられて、最終的には「公務執行妨害」とやらで、警察署に連行されてしまう信者の出てくるシーンがある。このシーンに私は非常な憤りを感じた。国家権力という最高権力の前には、サリン事件を起こしたオウム信者の力など、豆つぶ同然で、警察がどんな暴挙に出ようと、オウム信者達ははむかう術もない。これは立派な人権蹂躙である。サリン事件だけを見れば、オウムは極悪集団だが、その全てをもってオウム信者達を弾圧していいということにはならない。被害者達は被害者意識をもって、オウムをバッシングするが、そこに見境がないのだ。被害者なんだから、何を言ったっていい。悪いことをしたんだから、そこにいる信者達は何をされても仕方ない、と思っているのである。オウムがやったことは悪いことだが、一方で最低限守られなければならない「人権」というものがある。被害者達は、被害者意識がいきすぎて、この大切な「人権」というものを無視している。これは、とても危険な思考回路だ。破壊活動防止法というのが、事件当時問題となった。この法律は、危険な集団に対して、人権を無視してでも、封じ込めて良いとする危険極まりない暴力的な法律である。被害者達からしてみれば、自分達が酷い目にあったんだから、この法律をオウム適用して、オウムを八つ裂きにしてやりたいと思っているかもしれない。だが、そういった感情めいたものは、オウムがサリンで無差別殺人を行ったことと、本質的にはどこも変わらないのだ。