3.人間が、「地球」を削り、築き上げてきた文明の上で被る災害のすべては、何がどうであれ「人災」と言えるのかもしれない。
この映画で描かれる実際に起こった“災害”にしても、もし人間以外の者が傍から見ていたならば、「自業自得」と断罪されても致し方あるまい。
ただ、たとえそうだとしても、生き抜くことに執着して、妻子の元へ戻ろうとする権利は誰にだってあり、そのために力を尽くすことこそが、我々人間の正しい在り方だと思う。
炎が燃え盛る海の上、ほんの数十分の間、それをやり遂げた“普通”の人間たちの、良いも悪いも人間らしい姿に胸を打たれた。
2010年にメキシコ湾沖で実際に発生した原油流出事故を描いた作品なので、良い意味でも悪い意味でも映画世界の表現は制限されている。
前述の通り、登場する人物は石油採掘施設で働く作業員をはじめとするごく普通の人々であり、絶体絶命の危機を奇跡的に打開するスーパーヒーローなどは存在するわけもない。
休暇が明け、至って日常的に現場業務に戻り、普通に就労する中で突如として事故が発生する。
マーク・ウォールバーグ演じる主人公は、献身的な言動をするけれど、決して過度ではなく、あくまでも現場の責任者の一人としての一般的な救出作業に留める。
一方、一応の悪役として存在するジョン・マルコヴィッチ演じる発注企業側の責任者も、分かりやすい悪人などではなく、自社の利益とその達成を任されている企業人としての役割を全うする“嫌われ役”程度に描かれる。
そういう展開的な派手さや、極端な人物描写が全くない分、事故そのものの原因と現実的な危険性が明確になり、とてもリアルだったと思う。
当たり前の光景を描きつつも、吹き出す炭酸飲料や、車のエンジントラブル、不吉な色のネクタイなど、ささやかな描写を連ねて、これから起こるであろう“不穏さ”をさり気なく表現した冒頭シーンも巧かった。
一方で、当然ながら特筆すべき劇的な展開が訪れないことも事実。
もしこの映画を、「災害パニック映画」として観てしまったならば、大いに肩透かしを食らうだろう。
冒頭からのストーリー展開はまさに災害パニック映画的だけれど、事実を描いている以上、似て非なるものと理解すべきだ。
故に、果たして商業映画として成立するほどの題材だったのかという疑問符は生じる。
マーク・ウォールバーグ、カート・ラッセル、ジョン・マルコヴィッチとスター競演のスペクタクル映画として宣伝したのであれば、物足りなさが残ることは否めない。
事実を歪曲する必要は全く無いけれど、例えばクリント・イーストウッドが旅客機の不時着事故を映画化した「ハドソン川の奇跡」のように、事故後の当事者たちの葛藤や人生模様まで描きこまれていたならば、今作はもっと良い映画になっていたと思う。
まあそういう“行儀のいい”ドラマ描写を極力避けて、石油プラントの大爆発炎上シーンに心血を注ぐあたりに、ピーター・バーグ監督の“らしさ”を感じるけれど。