1.《ネタバレ》 正直なところ、ちょっと肩すかし感があったのね。もっと「スピルバーグ!」ってカンジのモノを見たかったのだけれど、奥ゆかしいというか節度を弁えてますというか。絶えず映画との距離を測りながら語っているような感覚で、あくまでひとつの映画としてのカタチを第一にしているようで。
最近見た、同じように映画についての映画を送り出した『エンドロールのつづき』のパン・ナリン監督や『バビロン』のデイミアン・チャゼル監督は迸る映画愛をどうだ!とばかりにグイグイご披露してくれちゃってたけれど、スピルバーグ監督はそんなコトはせず、自分の世界から独立させた物語としてカタチを整えて酸いも甘いも織り込んで映画というものの虚実を垣間見せてくれるわ。それは老成した彼ならではの語り口なのかもしれないし、ならばラストに登場するあの人は今のスピルバーグを映してるとも思えるのね(それだけの存在にまで到達しているという自惚れは無いかもしれないけれど)。
冒頭の『史上最大のショウ』の件はよく判る、とっても共感できたところね。彼が再現したがったあの感覚、アタシの場合、最初に大きく影響を受けた映画は『大地震』だったのでよくコタツの上で大災害・大崩壊を起こさせていたわ。
そこから続く物語はだけどスピルバーグ監督の、ではなくて主人公サミーの世界。監督の分身ではあっても本人ではない、映画を映画として成立させるために創造された存在。物語であるがゆえに決してこちら側にハミ出してくることのない、スクリーンの向こう側の存在として完結しているの。
前記の2作品は最後である意味第四の壁を越えちゃってるような状態だったのだけれど、それは映画からハミ出して送り手個人のナマな感覚を押し付けてくるようなモノで映画をあくまで映画としてきっちり線引きしてるスピルバーグは違うわねって思ったわ。そこが物足りなくもあり、でもそれこそが正しいカタチのようでもあって。それは送り手と観客との間で保たれるべき距離でもあるわけだしね。
ともすれば難点にもなりかねないジョン・ウィリアムズ、マイケル・カーン、そしてヤヌス・カミンスキーといったスピルバーグ組常連のスタッフのお仕事っぷりが今回はそれなりに繊細で綺麗にまとまっていて、それがまた物足りなさを生んでたりもするのかもしれないけれど、サミーのようにこれから始まる人たちに向けての映画であるならば、そこに過剰な色は要らないのかしらね。何しろこの映画の頃はまだ『激突!』も『ジョーズ』も生まれてないのだから。