2.近所の公民館で上映会があったので息子(小3)を連れて、30数年ぶりに再見。でも悟空につくす健気な少女猿リンリンや、小鬼の小竜が角をアンテナにして通信するあたりは、ハッキリと覚えてました。
でも何より興味深かったのが、手塚治虫的キャラクターや描き方と、当時の東映アニメ調のキャラクターや描き方が“水と油”状態であること。「手塚治虫」の部分が、そのスピード感といい、モダンなセンスといい(中国のお話しにJAZZやらディズニーやフライシャーのアニメ映画のタッチを持ち込むあたり、まさに手塚治虫ならでは!)、まるで無意味(だからこそ、笑える)なギャグといい、作品中から“突出”している。その他の部分ではいかにも東洋風の色彩や絵柄だのに、突然ガラリと「別の作品」が紛れ込んだかのような印象なんですねぇ。特に牛魔王のアジトでのクライマックスは、確実に手塚治虫ならではの躍動感に満ち満ちて、それはいいんだけど、明らかに全体のトーンから浮いているのです。
たぶん、作品としてはマズイことなのかもしれない。けれど今見ると、だからこそ「面白い」し貴重なんだと言える。手塚治虫をはじめ当時のスタッフが、試行錯誤を繰り返しつつこの長篇アニメを作っていっただろうことが、画面からありありと見えてくるような気がするんです。それはそれで、作品以上にスリリングで感動的なのでした。
そしてひとつ告白すると、ぼくは手塚がリードして手掛けたいかにも「モダン」で才気にあふれた部分を面白く見つつ、実のところ古めかしくも端正な東映スタッフ部分の方こそが魅力的に思えた(中でもあのリンリンの愛らしさ!)。映画に限らず芸術表現というのは、この天才をもってしても常に「新しい」部分からまっ先に古びていくものだ…という〈真理〉を、噛みしめた次第です。
もっとも、息子や居合わせた他の子どもたちには、圧倒的に「手塚パート」の方が受けていましたが…。やっぱ、小生の“見方”が歪んでるのん?
いやはや。