1.《ネタバレ》 アサイヤスはきっと優しすぎるんだろうと思う。美術館に展示されるような価値あるものの中で生きている人々のごく普通の家族の集いであったり、親の死であったり、遺産の相続であったりするわけで、すべては我々が生きている日常の生活と何も変わらない。それを優しすぎるくらいのまなざしでアサイヤスは切り取っていく。
しかしエリック・ゴーティエのカメラは優しくはなくて、むしろ過酷。それはデプレシャンの映画を見ているとよくわかる。デプレシャンは常に過酷だから。それは映画に何を求めるかという話になると思うが、個人的には映画に優しさを求めてはいけないと思っている。映画は常に過酷でなければならないと思っている。
これをゴーティエの問題とするかは疑問が残るが、アサイヤスとデプレシャンのカットバックはどこか似ている気がする。人物の位置関係がはっきりとせず、どこか忙しない。これは決して優しいとは言えないのではないか。むしろ過酷に映る。そういう面で、アサイヤスは優しすぎるからこそどこか損をしているように思う。
ただ若人たちが集まってくると、過去(歴史)と現実(現代)が混ざり始めて混沌としてくる。ああアサイヤスはこれがやりたかったんだっと思ったのだが、それと同時にゴーティエのカメラも急に活き活きとしてくる。娘がノスタルジーに浸かりだすと、それは正に混沌として何やら過酷で素晴らしい。
ラスト、俯瞰で、緑生い茂る中を手を繋いだ若いカップルが駆け抜けていくだけで、もうそれでいいよねって思えてくる。だって最初だって子供たちが走り抜けていくところから始まるわけだし。
結局、何がしたかったかっていうと祭りがしたかったのかなと思った。過去や今を背負いながらも、寂しくならず、いつでも楽しい祭りがしたいのかもしれない。そういう風景を撮りたかったのかもしれない。
アサイヤスの素晴らしいところは、何でもないごくごく普通の人々を、またはその行動を風景の中に溶け込ませて、また別の風景を産み出してしまうところだ。