1.《ネタバレ》 晩秋、39歳になった夜、極めて混濁した映画を観た。
「面白い」「面白くない」の判断基準は一旦脇に置いておいて、この映画が表現しようと試みている人の脳内の“カオス”にただ身をゆだねてみるのも悪くない。と、思えた。
僕自身が、人生の後半へ足を踏み入れようとする今、ことほど左様に自らのインサイドにも切り込んでくる映画だったとも思う。
主人公は、何の変哲もない恋に食傷気味などこにでもいる女性。
彼女が、恋人と共に、彼の実家へと古くくたびれた車で向かう。
あたりは吹雪が徐々に強まり、白く何も見えなくなる。
車内での弾まない会話が延々と続き、主人公も、私たち観客も、退屈で飽きてくる。
ただし、この序盤の退屈な車内シーンの段階で、妙な違和感は生じていた。
前述の古い車も含め、主人公たちの服装や街並みも確かに古めかしい。
いつの時代を描いているのだろうと思いきや、着信音と共に彼女の手にはiPhoneが。
あれれ、じゃあ現代の話なのか?と思うが、その後の彼氏の実家のシーンにおいても、およそ現代的な描写はなく、益々困惑してくる。
そして、随所に挟み込まれる高校の用務員らしき老人の描写。
更には、極めて居心地が悪い彼氏の両親の異様な言動と、明らかに時空が混濁しているのであろう描写が連続する。
“彼女に何が起きているのか?”
避けられないその疑問が、この映画が織りなすカオスのピークであろう。
ネタバレを宣言した上で結論を言ってしまうと、この映画が描き出したものは、或る老いた用務員の「走馬灯」だった。
主人公のように映し出された“彼女”は、年老いた用務員の脳裏でめくるめく悔恨か、一抹の希望か、それとも、迫りくる「死」そのものか。
いずれにしても、記憶と積年の思いは、彼の脳内に渦巻き、甘ったるいアイスクリームのように溶けていく。
人生は決して理想通りにはいかない。
劇中でも語られるように、人生は、時間の中を突き進んでいるのではなく、ただ静かに、ただ淡々と過ぎ去っていく時間の中で立たされているだけということ。
そのことをよく理解しつくしている老人は、ただ時間の中に身を置いている。
そこにはもはや絶望も悲しみもない。
特に死に急ぐということもなく、いよいよ虚しくなった彼は、己の人生に対して静かに思うのだ。
「もう終わりにしよう。」と。
あまりにも奇妙な映画世界の中で、人生の普遍的な虚無感を目の当たりにした。
その様は、とても恐ろしく、おぞましくもあり、また美しくもあった。
映画作品としてはどう捉えても歪だし、くどくどと長ったらしい演出はマスターベーション的ではある。
チャーリー・カウフマン脚本の映画を長らく興味深く観てきているが、監督作になると良い意味でも悪い意味でも“倒錯”が進み、ただでさえ混濁した物語がより一層“支離滅裂”な映画に仕上がることが多い。
やはり個人的にチャーリー・カウフマンの映画は、彼が脚本に専念した作品の方がバランスの良い傑作に仕上がることが多いと思う。
ただし、もし、あと40年後にこの映画を観る機会を得られたならば、もっととんでもない映画体験になるだろう。
自分自身が人生の終盤を迎えたとき、この映画の老いた用務員が最期に見た風景の真意も理解できるのかもしれない。