2.《ネタバレ》 やっぱり、「ニコラスケイジ映画にハズレ無し、はウソでした」はウソでした。ニコラスケイジ映画の佳品が、また一本。
静かな映画。ですが、ニコラス・ケイジ演じる主人公のジイサンが、そろそろどこかでブチ切れるんじゃないか、という不穏な空気が、緊張感をもたらします。いや、ブチ切れたところで、小汚いジイサンだし、強いのかどうかはわからんけれど、とりあえずややこしい事にはなりそうなので、確かにそこには緊張感が。
曲がりなりにも大スター(だった人?)が主演なのですが、ヒゲもじゃで表情が見えづらい上に、映画はことさらにクローズアップで彼の表情を追いかける訳でもない。スター映画の逆を行くようなこの抑制された表現が、上記の緊張感に繋がっています。表情が見えないとは言え、いやむしろ、それ故の、主人公の存在感とでも言いますか。
飼い豚とともにトリュフ採りで生計を立てている世捨て人のようなジイサンが、ある日何者かに襲われ、豚を奪われてしまう。大事な豚を探し出して取り戻すべく、ジイサンは町に出ていく、というオハナシ。しょうがないなあ、という感じで、ジイサンを愛車に乗せて豚探しに付き合うのが、トリュフの買い取りをしてくれていた若造。この二人による、ロードムービーのような構成になってます。
豚探しの行脚において、特に大事件が起きるという訳でもないのですが、時にジイサンはなかなか無謀なことをやります。豚探しのためならどんなことでもやりかねない、この一本気なところが、見た目の小汚さと相俟って、静かな狂気も感じさせます。
という中で、なんとなくこのジイサン、只者ではないな、ということが徐々にわかってくる。一方で彼につきそう若造、偉そうな割に大したヤツじゃないな、ということも。この印象の変化が、特に事件らしい事件が起こらない物語に、緩やかではあっても大きなうねりをもたらします。若造は、クルマの中ではクラシック音楽のラジオをかけていて、そのラジオ番組ではいかにもスノッブな解説が音楽に被さる。ジイサンはウンザリしたようにラジオを消そうとし、それを見る我々は「ジイサンはこういう“高尚ぶった”クラシック音楽なるものが嫌いなんだろう」くらいにしか思わないのですが、物語が進んできてジイサンの印象が変わってくると、このエピソードも「もしかして、ジイサンはクラシック音楽なるものの真価を知るが故に、(音楽ではなく)解説にウンザリしてラジオを切ったのではないか」とも思えてきて。
別に、人を見た目で判断しちゃいけませんよ、という説教臭いオハナシでもなくって、人それぞれ、これまでに経験してきた過去を抱えており、それぞれに内なる想いがある、ということ。
ラストには、一種の対決、実に実に静かな対決が行われます。
それぞれの過去、それぞれの想いがあってこそ、対決を通じて互いが繋がる。
まるで孤独を愛しているかのようなジイサンが、実は誰よりも愛というものに飢えていたのではないか。
ニコラス・ケイジ本人も実はこういう人だった・・・のかどうかはよくわかりませんが。