1.《ネタバレ》 パゾリーニの音楽に対する造詣の深さ(とりわけクラシック音楽について)は、つとに知られるところではあるが・・・この『王女メディア』では日本の地歌や筝曲、ラマ教の読経?、イスラム教徒のザグルール(叫びと手拍子)などなど異文化のカオスは、「ギリシャ悲劇」のオリジンを不明にするものとして、私は当初、違和感を抱いていた。
しかしながら、それが気にならなくなってきたばかりか、西洋音楽の音階とは全く別世界の音調・・・レンジも狭く、おそらく西洋人にとっては音階やメロディーのない音楽の持つ呪術的な不気味さ、畏敬の念を感じさせたのだろうと私は想像している・・・映像とパゾリーニが意図した作品のテーマに合致していることに感心させられるようになってきた。
大悲劇というスケールより、バーバリスティックな宗教儀式の挿入などギリシャ世界とは異質な独自世界を表出、セットもフィルムワークでも音楽同様にレンジが狭いものの、この作品の抑制されてはいるが、不気味で執拗な感情の変遷に主眼が行われているように思う。
また、主役メディアをマリア・カラス。彼女はギリシャ人でもある。私なんぞは、この映画を見るより先にオペラ歌手マリア・カラスとして、同じ題材を扱ったケルビーニ作曲の「メディア」を聴いてしまっていたため、どうしようもない先入観を持ってしまう。とりわけ、このオペラ作品については音楽史の中に埋没していたものを、マリア・カラスが蘇演させ、作品の評価を決定付けたものでもあり、メディアといえば未だカラス以外の余人をもって代えがたい作品である。彼女の声の劇的で表現の深さ、役柄や言葉のデョクションを徹底的に掘り下げるスタイルなど、おいそれと凌駕するものはいないほどの圧倒的存在ではあるが、こうして歌わない演技だけの彼女の姿を見ても演劇人としての稀有な才能が改めて再確認された次第であった。この映画は、間違いなくカラスを抜きにしては語れないし、おそらく製作されなかったものだと言っても過言ではないと思う。
おそらくパゾリーニは・・・マリア・カラスという人の映像は数えるほどしか残されていないことは悉くも残念なこと・・・パゾリーニの彼女の偉大な才能に対するオマージュでもある。こうしてマリア・カラスの貴重映像が残されたことの意義は、極めて大きいと思う。