3.カメラは一見気まぐれで、その場に居合わせた人間の視線を思わせ、臨場感たっぷり(いささか落ち着かない印象もありますが)。しかしそれは常に全体よりも、顔・手・足の「表情」を追いつづけ、ああ、この機械のごとき精密な動きは確かに、生身の人間によってなされているのだなあ、という思いが、強くします。多くを犠牲にし、ウルトラクイズ並の競争率(?)を勝ち抜いてきた彼ら。舞台の上の輝きというのは、その長い長い長い道のりの中の、ホンの一瞬の輝き、なんですねえ。そもそも、その道程を僕らが「犠牲」と呼ぶこと自体、傲慢なことなのかもしれません。少なくとも彼らは「可能性」に生きている。可能性の無意味な浪費こそが本当の「犠牲」なのかもしれない・・・。たまにはこういうキビしい世界を垣間見て、日頃の怠慢を反省するのもよいでしょう。世の中、安っぽい感傷があふれすぎている。感傷なんてのは所詮、何もしないヒマ人の寝言なのであろう。