1.この映画を観終えて最も興味深かったことは、圧倒的に“古めかしい”モノクロ&サイレントという表現方法を用いながら、明らかな“新しさ”を感じたことだった。
それは、「無声映画」が遠い昔の映画の在り方だということの認識は充分にあっても、実際は、チャップリンらの作品のダイジェスト的な映像をかろうじて見かじったことがある程度で、自分自身の映画体験として備わっていないということに他ならない。
だから、最低限に表示される台詞だけで充分にストーリーと登場人物の感情が伝わるということや、特別な映像合成を用いなくてもハッと驚くシーンが見せられるということに、新たな発見をもって素直に感動することが出来たのだと思う。
そして、それらこそが映画が持ち得る“マジック”なのだということを思い知った。
観賞後、あのシーンが良かったな、あのシーンが好きだな……と、各シーンが印象深く思い出される。それはこの映画が、あまりに基本的ではあるけれど、揺るがない数々の映画のマジックに対して、尊敬の念を込め再表現しているからだ。
昨今の映画に比べ、人物描写があまりに単純で都合良く見えなくもない。ただ、だからこそシンプルに伝わってくる主人公らの純粋な思いこそが、この映画が最も伝えたかったことなのではないかと思える。
懐古主義ということを否定は出来ない。アカデミー賞を獲得したのも、高齢化が進むアカデミー会員の懐かしみの感情をピンポイントで刺激したことは大きな勝因だろう。
しかし、当然ながら今作は、“トーキー”という技法がないから“サイレント”になっているわけではない。
最新の3D技術に至るまでのありとあらゆる映画技法の中から、敢えて“サイレント”というものを選んだに過ぎない。(実際、今作が完全に「無声映画」かと言えばそうではないわけで)
映画表現という概念が、何よりも「自由」を尊重する以上、新しかろうがはたまた古かろうが、どのような表現方法を用いてもそれはまったく構わないことは言うまでもない。
この映画は、懐古主義でありつつ、温故知新により映画の表現方法をまた一つ広げたとも言え、やはり新しい時代に描かれるべき映画だったのだろうと思う。
主演俳優の声にならない慟哭に胸を打たれ、幸福感溢れるタップダンスに心躍る。
映画を楽しむということはこういうことなのだということを、この“無口”な映画は雄弁に語っている。