3.「カトリック教会神父の6%が子どもに性的いたずらをしている」という衝撃的な事実が作中で明らかになり、追求される。
その時点で、この映画が描く問題の本質は、一部の“糞神父”の存在を明らかにすることではなく、長い長い時間に渡ってそういった輩を生み出し続けてきた「教会」のシステムそのものの在り方であることを突きつけてくる。
問題の“根”はあまりにも深く蔓延り、果てしない。それ故に、「真実」の追求に果敢に挑んだ新聞記者たちの魂が、闇の中で輝いて見えた。
第88回アカデミー作品賞を掴み取った今作は、決して華美ではない地味な映画ではあったけれど、秋の夜長に腰を据えて観るに相応しい映画だった。
そして、他のどの作品よりも「強い」映画なのだろうと思えた。
この映画は、如何なる時も「真実」の追求には覚悟が必要だということ。そして、得られた「真実」にもまた別の側面があり、それを決して忘れてはならないということを、奮闘する新聞記者たちの様を通じて伝えている。
ある意味での「大帝国」であった「バチカン」の盤石を揺るがしたのが、地方紙のたった数人の記者たちだったということは、世界中に衝撃と勇気を与えたことだろう。
「ペンは剣よりも強し」という格言をこれ程までに事実として表した出来事も無かったのではないか。
新聞記者たちの功績は、勿論賞賛に値する。彼らの姿勢こそ、今世界中のメディアが見失っている「伝える者」としての在り方だと思う。
「情報」が、消費社会における思考停止の権化になり下げってしまっている現代社会の危うさは極まっている。
「伝える者」と「伝えられる者」の在り方を、真剣に見直さなければ、世界中の混沌は益々歯止めがかからなくなるだろう。
今作でも垣間見えるように、「真実」には、あらゆる意味で危険がつきまとう。
しかし、その危険を回避するばかりで、安直で軽薄な情報ばかりが蔓延し、あたかもそれらが「真実」であるかのごとく消費し、垂れ流すこの社会は、危険そのものだ。
「教会神父の6%が小児性愛者である」という事実は、限りなく真実に近いのかもしれない。
しかし、それまで無知だった人間が、この映画を観たからと言って、それをそのまま鵜呑みにすることも、それはまたあまりにも危険で、愚かなことだと思う。
重要なことは、ある情報を伝えられ、それが正しいのか間違っているのか、伝えられた側の一人ひとりが真剣に考え、更なる情報を追求していく姿勢だと思う。
この映画の「強さ」は、まさにその姿勢を貫くために必要なものだ。
そしてそれは、情報と消費の大波にただただ流されている我々一人一人に必要なものだと思う。
キレるマーク・ラファロが、いつ例の緑の男に変貌しないかと戦々恐々としつつ、そういうことを噛み締めた。