4.近年、インターネット環境の普及、発達に伴い、「時間と場所にとらわれず働く」というスタイルを表す言葉として「ノマドワーカー」というフレーズが市民権を得ている。
ただ、今作「ノマドランド」が表す「ノマド」とは、そんな昨今の先進的なワークスタイルを華やかに描くものでは当然ない。
この映画は、現代のアメリカ社会の“ひずみ”の中で、行き場を失い、それでも存在し、必死に生き抜こうとしている人々の生々しい様を、圧倒的なリアリティと説得力で描きつけた力作だった。
自らの人生に打ちのめされ、世知辛い社会から追いやられた人たち(=ノマド)、その多くは高齢者だ。
住処も、財産も、健康も、機会も、急速に先細り喪失していく中で、彼らは期間労働者として、アメリカ各地を転々とする生活を送り続ける。
その生活の様は、「ノマド」の本来の意味である「遊牧民」や「放浪者」という印象がやはり強く、人生の黄昏に、流浪の生活を送らざるを得ない高齢者たちの姿は、率直に身につまされる。
ただし、今作は、そんな現代社会の中で、或る意味“蚊帳の外”に追いやれている彼らに対して、ただ単純に同情を誘ったり、社会システムの是非について安直に問うような作品ではなかった。
本質的な意味合いの“ノマドワーカー”として流浪する高齢者たちの姿は、無論悲壮感に溢れ、とてもじゃないが安閑として見てはいられない。いつ何時吹き消されてしまうかもわからないようなか細い蠟燭の火を、消えないように消えないように必死に灯し続けているように見える。
でも、その生活、その生き方自体は、それぞれ苦慮の果てではあろうが、彼らが選び取った「道程」であることを、理解し、直視すべきであろう。
フランシス・マクドーマンド演じる主人公も、最愛の夫に先立たれた挙句、企業城下町として栄えた居住地が企業の倒産により街ごと消失してしまったという憂き目にあったとはいえ、人生の岐路において他の“選択肢”があったことは明確に描かれている。
ふと遭遇したかつての隣人は敬意と共に手助けを進言してくれていたし、“普通”の結婚生活をしている姉も心から妹のことを心配しているし、道中で知り合った同じノマドの老紳士は彼女のことを好いてくれていた。
主人公は、教養もあり、人徳もある魅力的な人間であり、彼女が、流浪の生活から抜け出すための“きっかけ”は、全編通して散りばめられていたと言っていい。
それでも、彼女がノマドの生活を脱却することは、ついに最後の最後まで明確には描かれなかった。
それは、彼女が人生の黄昏に自らの手からこぼれ落ちてしまったものが、決して物質的なものではなく、精神的な拠り所だったことに他ならない。
そしてそれは、この映画に登場するリアルなノマドの高齢者たちの表情や人生模様からも如実に伝わってくる。
“ノマドランド”に集積し、充満し、やがて儚く霧散していく彼らの存在は、この世界全体が慢性的に孕む「喪失感」そのものだったのだと思った。
僕自身、人生40年、まだまだ若いつもりだけれど、この先の“生き方”というものを最近よく考える。それは10代、20代の頃の青臭いものとは明確に異なっているように思う。
その先にあるものが「死」であることは間違いない。
それでは、僕はこの先、死ぬために生きるのか、生きるから死ぬのか。
40代を経て、50代、60代、さらにその先の道程で、その感覚はより現実的な人生観と共に変わり続けるのだろう。
その感覚の変化そのものが、まさに「流浪」であり、すなわち「人生」なのかもしれないな。と、今は思う。