1.東海林太郎の「むらさき小唄」が流れて始まるが(トーキーになり映画主題歌でレコード業界とつながった最初のころだろう)、私が見たのは総集篇で、ハラハラの設定までナレーションで準備してしまうのは参った。でも舞台がらみのシーンはなかなか見せます。悪女伏見直江に閉じ込められたはずの雪之丞が、ちゃんと町娘姿で舞台に立つとこ。もちろん映画の観客は闇太郎に助けられたことを知ってるし、間にあうだろうかどうだろうか、なんて心配してないが、嬉しいね。毒婦の鼻をあかしてやって痛快、っていうのとも違う。女形というものの非現実性から来る不思議を目の当たりにした、という感じだろうか。あるいはやはり舞台シーン、雪之丞を狙う男二人、毒婦の差し金で野次ろうと待ち構えているゴロツキども、御簾の中で目を配る伏見のカットなど、純粋な悪意が描かれるあたり。どうして映画のなかの劇場ってのは、こうドキドキさせるんだろう。とりわけ歌舞伎という芝居は客席に花道を一本通しただけで、小屋全体が舞台になってしまった演劇であり、小宇宙になっている。奈落では仇の二人が取っ組み合って地獄を現出しているし、外の廊下では男が殺されているし、もう小屋全体がドラマの興奮に詰まって、それでいて客席以外は不気味に静まっている。何か良くないことが起こらずにはいられない、と納得させられてしまう。白い雪之丞と黒い闇太郎を同一人が演じる、ってのも大事なんだろう。悪役が『七人の侍』の村の長老、高堂国典だった。