5.◆うーん、考えさせられました。◆ぼくは、マイケルムーアの番組が好きでよく見るのですが、彼は大局的にアメリカ国家を見ているので、アメリカの抱える社会問題に対して「国家の言い分に沿いつつ、ひねくれた自分の主張を表現する」という、いわばアメリカ国家の土俵に上がって、社会問題を批判しています。◆ところがこの映画は、イスラエルから来た女性、愛国者の男性から見える事象、つまり局地的な視点を中心に話が進んでいきます。◆その視点からは、ロスは飢餓の中心地であり、アラブ人は温和であり、グラウンドゼロは工事現場でしかない。◆アメリカ国家の言い分という色眼鏡をかけずに、全ての事象を淡々と映していきます。僕は特に、「アラブ人=テロリスト」という方程式に疑問を投げかけた点が素晴らしいと思う。あの温和なお兄さん、それからハッサンの生活実態、それを知ることによってその方程式はあっという間に崩れ去る。人の優しさを映すことが、そのまま一つの主張となる点がとてもよかった。◆僕はこのようなマイケルムーアとまったく違う色合いが出せたのも、監督が徹底的にローアングルにこだわったことに理由があるのではないかと思います。目線を人物に置くことで「個人から見たアメリカ国家」というものをうまく映せたのではないかと思います。シンプルですが、重要な映し方ですね。◆いい作品でした。ただ、若干冗長ぎみであることと、主張がいまいち絞れていなかったことから-2点で8点を献上させていただきたい。 【もりたろう】さん [DVD(字幕)] 8点(2006-11-15 09:45:03) |
4.《ネタバレ》 ラスト、叔父と姪が見たグラウンド・ゼロはただの瓦礫の山だった。物質に意味を与えるのは人間の想像力である。むしろ、グラウンド・ゼロをみて「なにか感じなくてはいけない」という強迫観念のほうが危険なのではないかと思う。それは、大きな力が起こした出来事に対して正面から取っ組み合うこと自体が、一人の人間がもつ判断能力を超えてしまっているからだ。原爆について描いたもっとも痛切な映画が「黒い雨」であるように、9.11についてもこの映画が参照されつづけることは間違いない。奇妙なことにどちらの映画も、「大きな危機」を乗り越えた人たちの「その後」を描いている。一方、ハリウッドでもそろそろ9.11を描いた映画が製作されているようだ。ハリウッド映画では、「大きな危機」そのものが中心的に描かれれ、「被害者」であるという印象を誇示するタイプの映画になるのだろう。でも僕たちが本当に聴き入るべきなのは、「被害者」として物質に過大な意味を負わせて「死者を代弁する」人々の声ではなく、「生き残った人」として「死んだ人の体験には届き得ない」ことを知りながらも「死者の声に耳を澄ます」ひとたちの言葉なのだと思う。 |
3.《ネタバレ》 9.11をテーマにした作品。飛行機がビルに突撃する直接的な映像を使用せずに、その衝撃・悲惨さを伝えようとするフィクションによる刺客。ラナ役のミシェル・ウイリアムズが何とも言えないエロティシズムだった。ビルの屋上で、ipodを聞きながら佇んでいるシーンは秀逸。映像でなければ撮れない類の美しさだと思う。伯父のポールが、ベットの上でベトナム戦争の後遺症に苦しむ姿を見守るシーンの表情、息使いは絶品だ。少女であり、母であり、女である空気感を身に纏える役者さんである。物語は、テロという「恐怖」に対してポールの過剰な自衛と、ラナの生活に根ざした援助という、平和に対する二つのアプローチが対比されながら展開される。物語終盤の、ポールがテロリストのアジトに突入するシーンに、この映画のメッセージが集約されている様に感じた。テロリストのアジト、だと勘違いした場所には、老婆が一人、ぽつんと寝ているだけであった。それが「恐怖」の正体。ここまでしつこいほどに描いてきたポールの行動理念が、一瞬にして崩れる瞬間。映画の手法としてはもう、コメディの見せ方で。ラスト。グラウンド・ゼロに降り立った二人は、その場所自体、思ったほど胸に響かない事に気付く。そこにあるのは、ただの瓦礫の山。これは何かを「神格化」する事の否定なのではないか。何かを過剰に妄信する事、それはポールの様にある意味で滑稽であるし、引き返す事のできない道を進んでいくという事である。それが間違った道であったとしても。身の丈に合わない行動は、いつか破綻するものである。それに対して「犠牲者の声に耳を澄ませよう」というラナの言葉、それは誰にでも、どこにいても出来る行動である。「自分の国は場所じゃない、人々だ。」というセリフのように、個人を重視するべきであるというメッセージ、これを私たちはどう消化していくべきなのだろうか。 【郁】さん [映画館(字幕)] 8点(2006-01-22 13:36:02) (良:2票) |
【たま】さん [映画館(字幕)] 8点(2005-11-06 21:18:28) |
1.グラウンド・ゼロから次第にカメラが上昇し、夜になりかけた空を映し出す。その空は、以前では見ることが出来なかったものだ。それを虚空と名づけるには思いが込められ過ぎている。それでも撮る。正しいとかそういう以前に、このシーンを入れなければならないという義務みたいなものが働いている気がした。だがヴェンダースとアメリカという、多くの人を困惑させ幻滅させたであろう組み合わせがこの映画ではもっと接近し、それゆえに離れてしまったような感じもまた、このラストシーンで抱いた。この感覚は矛盾しているようだが、この映画自体アメリカという矛盾で成り立っている事にも気がつく。イスラエルから母の手紙を持ってアメリカに帰った一人の少女と、その伯父(つまり少女の母の兄)――ベトナム戦争の後遺症を引きずりながら、アメリカの理想へと盲進する――との出会い。対話の不可能性を示しながらも、両者の体験を共有してゆくことで新しい何かが生じる。そしてその何かを、まずはあの空に求めてみる。真摯な姿勢だと思う。だが見終わったときは、それだけか、とも思った。そもそも短期間で、しかもビデオで撮るという機動性は、正面から取り組みすぎたこの作品のテーマとは相反しているような気がする。だからといって、しっかりと腰をすえて撮ったところで何がしかの獲得があるかどうかは、わからない。だが、ドイツ生まれのヴェンダースがこのテーマを撮ったのにアメリカの映画監督はまだほとんど、この映画のラストシーンに正面からぶつかっていないようだ。ランド・オブ・プレンティのラストは「始まり」でもある。必見。 【Qfwfq】さん [映画館(字幕)] 8点(2005-11-05 01:13:40) |