1.《ネタバレ》 個人的に苦手としているコリン・ファレルだ。
しかし今回は、人間離れしたどちらかというとよりサルに近い役であったので、例のサル顔もあまり抵抗なく見られた。
それにしてもひどい邦題で、これは「さいはての家」で行くべきでしょう。(故鷺沢萌の〝さいはての二人〟を思い出します)
ジョニーの男遊びを見ながら、どうせそんなことになるであろう、とだいたい想像はついてしまう。
というか、ロビン・ライトが出ると、エイズオチになるのはなぜか?という気もしますね。
これはジョニーがエイズにならなければ、「田舎に飽きたクレアが家出を繰り返す」とかそんな程度の不幸で終わる話なわけです。エイズですべてをオトすというのはなあ。やっぱり「フォレスト・ガンプ」の2番煎じの感は免れない。
男性の作り手は男2人に女1人の三角関係を描くのが好きみたいです。(「スリーサム」といい、「レスザンゼロ」といい)そこのところに、私は「夫や父親としての役割が2分の1で済んだらどんなにいいだろうか」という男性側の隠れた願望を感じてしまう。
「2分の1ならやってみてもいいんじゃないかな」とかね。表向きはマッチョ神話で生きてきたアメリカだからこその、隠れた願望と言えるのではないか。
クレアは、ジョナサンがエイズで闘病して死ぬところを娘に見せたくない、ということで出て行ったのでしょうが、「自分は接着剤でしかなかったのか」という思いも当然あったでしょう。クレアにしてみれば、本当に愛していたのはジョナサンで、ゲイのジョナサンと人生を分かち合うために、ジョニーを交えた三角関係で妥協したというのが本音でしょうから。進んでいるように見えたって、女なんですから。あくまでもジョナサンとの1対1の関係の次善策として、変則的な関係を選んだと私は見る。
そういう意味で、出て行ったことに説得力を持たせるためには、お母さん化したロビン・ライトより、まだ女としての欲望や生々しさが感じられるもう少し若い女優さんにしたほうがよかったかなあ、という気がしました。ちょっとシワが目立ちすぎるな。
特筆すべきは、サルに近いジョニーという人に、手に職を持たせ、プータローでなく職業人として位置づけたところです。これが映画に厚みを持たせたと思う。フツウならホームレスになるか誰かに養ってもらいがちなところですが。
NY生活での70年代ファッションなども楽しめます。