1.《ネタバレ》 この映画をもとに、ノルウェーではゲーム依存症が精神科の診断基準から除かれたらしい、という実に不確かな情報を耳にして視聴
まずは、心をゆすぶられた
そして、なるほど、世の中こんな風になっていくんだなあ、と感心
「性同一性障害」が治療の対象でなくなったように、ゲーム依存も治療の対象とはいえないという考え方が、それなりに感覚的に理解できた
とくにASDの息子と母親がメタバースの中で邂逅するという話は、これが実話だけに、大いに感心した
しかし疑問が2つ残った
1つは単純な疑問
主人公のイベリンのように現実世界での活動が制限されざるをえない人、そして生活するうえでの支援を全面的に受けられる人には、ゲーム依存症なんていう言い方が適切でないとしても、現実世界で経済的にも身体的にも自立することが可能な人については、やはりゲーム依存は治療の対象になるのではないか、ということ
これが、ASDやADHDをもちゲームの世界で生き長期的に引きこもりになってしまい生活保護で暮らしているというケースになると、問題がややこしい
少なくとも、現在の日本の一般の感情的には、ゲームの依存をなんとかして減らしましょう、と考えるのだろうと思う
「性同一性障害」の問題と同様、将来は違う考え方になるという見方もあろう
一方で、「性同一性障害」は人類というか動物が誕生して以来もともともっている特性の1つであると考えられるのに対して、ゲーム依存はそうではないから、そうはならないだろう、という見方もあろう
もう一つの疑問は、もうちょっとややこしい
人間の尊厳という問題
イベリンはDMDのために現実社会では引っ込み思案で多くのことをあきらめ「友情も、恋愛も、誰かの人生に影響を与えることも」経験しない生活をおくり(父親の表現)、眠るように去った(母親の表現)そうだ
しかし両親の知らないメタバースの世界のイベリンは、情熱的で女性にもよくモテて(恋愛もして)、その発言はいつも場を明るくするような人だった
そして、自分がどほど周囲に影響を与えるかに気が付いていなかった、と語られる
つまり、主人公は、体は自由でないために現実社会においては静かに臆して生きていたが、メタバースにおいて魅力的で、かなり他人に影響力を発揮するような人として生きていた
このメタバース空間で発揮する「本当のイベリン」の魅力が、私の胸を打ったわけである
そこに「人としての尊厳」というものを感じたのである
ただ、私はイベリンが自分のことを「聴覚や知能に問題がない」と語ったときにドキッとした
なぜドキッとしたのかと、映画を観終わった感動とともに考えた
そうして、「身体が全く不自由であったとしても、知能に問題がないから、人に影響を与えるような「本当のイベリン」が存在していた」という事実に、ドキッとしたことに気がついた
例えば最重度の知的障害がある人は、イベリンが与えたであろうような能動的な影響力を示すことは難しいだろう(その人をケアする人への深い喜びや感動を与えることはできたとしても、能動的な影響力とはいえないと思う)
●●はできないけれど、●●はできる、という考え方だけでは、結局、できないことが多いほど価値がないという考え方に陥ってしまいかねないということだ
こういう感動モノの映画に潜む落とし穴みたいなものと言ってもよいかもしれない
まだ、未消化なのだが、とりあえず、感じたことを書いておくことにした(2025.3.9)