1.《ネタバレ》 今から約4年前の2018年3月31日(土)の深夜(厳密には4月1日(日)の早朝)、たまたま放送していたリメイク版(1995年)を(途中から)観たのを機に「まず1作目(1960年)を観てから、あらためてリメイク版を観てみよう」と決意。このたび、ようやく1作目とこの続編がカップリングされたDVDをレンタル店から取り寄せて鑑賞。
なお「続編とはいっても、設定の一部(眼が光るなど)を転用しているだけで、全く別の物語」ということは、以前読んだSF雑誌で知っていました。さて、観た結果は…
日本未公開ですが、その理由は、当時の日本の状況と映画の内容に由来するものではないか…と思いました。
当時の日本は、まだ戦後から20年に満たず、人々の多く(私の両親も含め)は「もう二度と、戦争に巻き込まれたくない。子ども達を戦争に巻き込みたくない」といった願いを、生々しく、切に抱いていた時代です。
それに対し当作品は【優秀な子ども達を、他国より優位に立つための殺戮兵器を開発する道具として無理やり連れて行こうとする。『他国に奪われるぐらいなら殺してしまおう』という思惑もひしめき合う】【結局、子ども達は全員、軍隊によって命を奪われる】という物語です。
そのため、日本の配給会社の人々から「子ども達の扱いがあまりにも、むごすぎる」といった声があがったのではないか…と推察しています。
以下、あらためて内容に言及します。
主人公の男の子は、母親から「あんたなんて、産んだ時に殺しておけばよかった」と罵声を浴びせられ、お偉方からは上記のように【戦争の道具】として扱われます。しかも、理解者であったはずの遺伝学者でさえ、人間とは異なる種(という疑い)がかかった途端に「彼らに支配されるぐらいなら、今のうちに抹殺すべきだ」と態度を急変させ…というように、結局、子ども達の味方はごく少数でした。
おそらく産まれたときから異端者として冷たい視線を浴びせられ続けてきたであろう子ども達の眼差しはよどんでおり、深い悲しみをたたえている印象を受けました。
そして、ラストは…本当にちっぽけで些細なアクシデントによって、それまでの緊張の糸が切れて軍隊による戦闘が勃発してしまい、上官が慌てて中止の指令を出しても現場の暴走は止まらず、全てが台無しになってしまう…つなぎ合った手だけが瓦礫から露わになった子ども達の亡骸は「信じ合おう・助け合おう」と手を取り合って努力しながらも無残に命を奪われてしまう市井の人々の無念さをも象徴しているように私は感じました。また、アクシデントのきっかけになったマイナスドライバーのアップに対しては【人間のコントロールの及ばない、本当につまらない偶然で、取り返しのつかないことになりうる】といったことを連想しました。
このようなわけで、1作目とは全く趣が異なる印象を受け「この映画って、当時の冷戦や核兵器による全面戦争の危機を風刺したものなのでは…」と、大変、重苦しいものが残りました。
後で副音声のコメンタリーを聞いたところ、当作品の脚本を手掛けたジョン・ブライリー氏が解説しており「冷戦についての寓話として考えた」という趣旨で語っておられました。
ただし、1作目と共通しているところもあります。全体が淡々としていて【グチャグチャ・ドロドロと形容されるようなグロテスクな映像】が無いという点です。そのため、人によっては1作目と同様「これのどこがホラーなの?」といった感想を抱いたとしても不思議ではないかな…と思われます。
もっとも上記のように、作り手さん達は【寓話・風刺劇】として製作したわけですから、少なくとも私には十分、心に響くものがありました。
個人的には、鑑賞したタイミングが、このご時世だけに、絵空事とは割りきれず「冷戦は過去のものになったとはいえ、現在の国際情勢を踏まえると、テーマは古びておらず、むしろ危機感は強まっているのではないか…」「全面戦争とはいかないまでも、些細なアクシデントや行き違いによって戦闘が始まってしまい、なかなか停戦や休戦にならないケースが、現在でも少なからず存在するのではないか。報道されていないだけで…」といったことが、頭を巡りました。
さて、採点ですが…現在の心境では【風刺映画】として10点にしたいところですが、①メッセージ性が強い作品のため、観る人によって好き嫌いがハッキリ分かれそうなこと、②ラストが強烈とはいえ、全体としての出来は佳作レベルと思われること、という2つの点を減じ、1作目と同様、8点とさせていただきます。
*1作目である【未知空間の恐怖/光る眼:1960年】は、別途、レビューを投稿しています。