1.見るともなく空を見ながら、川沿いを自転車で行く主人公の高校生を見て、自分自身の高校生の頃を思い出した。同じように、何となく空を見上げて、自転車で川沿いの家路を辿った。
勿論、僕は、コスプレ好きの人妻と不倫をしていたわけでもないし、文字通りの飢えを感じるほど貧困に窮したわけでもなく、ただただ普通の男子高校生だった。
それでも、悩みやそれに伴う鬱積は確実にあって、それらに対して何の解決策も持たない自分自身に、悲観しつつ、呆れつつ、日々を過ごした。
俯瞰して見れば、この映画の主人公の高校生は、結局のところ、何一つ自分で解決したわけではない。
すべては彼に関わる“大人”が、決断し、導き、見守り、彼を生かしたのだ。
当の本人は、傷心と攻撃にただただ打ちひしがれ、閉じこもり、幸福にもまわりの人間に助けられて、再び立ち上がることが出来たに過ぎない。
そして、ふと空を見上げて、なんだか成長したような気分になっているに過ぎないのだ。
……でもね。それでいいのだと、強く思う。
この映画で描かれるようなちょっとヘビーな境遇であろうとなかろうと、16~17歳の高校生に出来得ることなどたかが知れている。
むしろ、「何も出来ない」と言ってしまっていい。
唯一出来ることがあるとすれば、それは、主人公の母親が言う通りにただ「生きる」ということだけだ。
ささやかでどうでもいいことの方が多いのだろうけれど、絶え間ない悩みと鬱積に対して、ただひたらすらにうじうじともがき苦しみ、時間の経過とまわりの人間の助力によってそれらが自然に雲散霧消するのを待つ。
そして、空でも見つつ、自分で自分を慰めて、その先を生きていく。それでいいのだ。
この映画の作り手は、「現実」に対してドライな観点を終始保ちつつ、同時に普遍的な慈愛をもって、決して劇的ではない人間模様を落ち着いて描いていると思った。
すべての人間が生きていいく上で必ず意識する「生」と「性」。
それらは常に対のものとして、人生に喜びと苦しみを平等に与える。
その美しさとおぞましさを、何の変哲も無い普通の人々の群像の中で繊細に描き出してみせたこの映画の在り方は、とても正しい。