3.《ネタバレ》 心に傷を負った男の魂の彷徨。
フレディが入信したのはマスターのカリスマ性ないし父親の面影に惹かれたのであって、宗教は二の次だ。
逆もまた然り。
マスターは自由奔放なフレディに憧れを抱き、お互いに足りない部分を補い合う共同体の関係を匂わせる。
しかし、それは双方が未完成の存在であることと密着し、フレディの余りある力が、
マスターの王国を破壊しかねない危うさも持つ。
だからこそ、黒幕的存在の妻が王国の存続のために男二人を操ろうとする画策が垣間見える。
最終的に二人は袖を分かつ。
残りたくても己の本能が拒否する矛盾、引き留めようにも手の届かない焦燥感、
それぞれが完全になりかけた瞬間、臓器移植の拒否反応のように共同体でなくなってしまった。
"救い"から見放されたフレディは、これからもダンスする相手を変えるように、
現実に存在しない"砂の女"を求めて彷徨い歩くのだろう。
いや、他者承認されずとも生きられるありのままの自分=ニーチェの提唱する"超人"と見るべきかもしれない。
ホアキン・フェニックスの"動"の怪演、フィリップ・シーモア・ホフマンの"静"の怪演の摩擦が恐ろしくも凄い。
重厚な画作りが不安と翳りの50年代アメリカを更に浮き彫りにさせる。