1.《ネタバレ》 岡崎京子の原作漫画に強い思い入れがある人間は多い。彼女ら彼らの、その思い入れの強さは少し常軌を逸している程だ。本作の登場人物の名を借りるなら、田島カンナ的であるとさえ言っていい。そして間違いなく、私もその黒焦げの田島カンナたちのうちのひとりだ。それゆえに初見では、まさに岡崎の漫画を読んでいたあの頃そのままに、頑なに閉ざした私の心はぴくりとも動かなかった。好演は認めつつも二階堂ふみら俳優たちがどう見ても大人であることが許せなかった。そして何よりも、吉川こずえとして登場するのが(無茶な話は百も承知で)90年代の異星人じみた吉川ひなのでないことが、どうしても許せなかった。それでも思い直して、改めて二度目を観たのはなぜだろう。目から鱗が落ちたようだった。あまりに自然に、素直に、この映画を受け容れている自分がいた。永遠にやって来ることのないUFOにあらかじめ見棄てられ、それでも平坦な戦場で彼らは生き延びていく。心からそう思えた。行定勲監督は、漫画の構図を意識して本作に4:3スタンダードを選んだと言う。さらにその画面の中に展開する物語や描写もまた、原作漫画を、執拗なほど、忠実になぞっていく。映画監督としては、漫画を「映画」として新たなマスターピースに創りあげていくことが、本来の使命であるはずだ。しかしながら行定は、その作家としての主張を敢えて抛ち、終始職人役に徹した。とても危険な賭けだ。そして事実批判の声もあるようだ。しかし私は、彼の選択は正しかったと思う。行定勲の、ではなく、岡崎京子のリバーズ・エッジをまずここに焼きつけることこそが、少なくとも本作に限っては、彼の使命であったのだ。随所に挿入される二階堂らが役を演じたままインタビューに答える原作にはないシーンは、90年代を生きる若草ハルナたちと現代を生きる生身の俳優らをシンクロさせる意図が不発に終わった感が否めないものの、彼らのサバイブの隠喩として原作よりも印象深くガジェットとして機能する牛乳や、火だるまとなってゴミ棄て場に転落する田島カンナの軌跡をタバコの吸い殻によってあらかじめ提示する描写などには、行定勲ならではの冴えが垣間見えることも付け加えておきたい。