6.《ネタバレ》 喜劇王キートンのフィルモグラフィーの中で、最も有名な場面。
それが本作の「建物が倒れてくるけど、窓枠の部分にスッポリ収まり無傷なキートン」になると思われます。
「それはつまり、コレが彼の最高傑作って事なのか」と言われたら、自分としては異議を唱えたくなるんだけど……
そう認識されても仕方無いくらいの傑作である事は、間違いないですね。
とにかくもう、キートン自ら監督したという後半部分の「ハリケーンに襲われた町」の描写は圧巻であり、良くもまぁこんな世界を描き出せたものだと、感心するばかり。
キートンの魅力といえば、当人のアクロバティックな動きが真っ先に挙げられるけど、この人って自分以外の「舞台の作り方」も、本当に上手いんですよね。
自分は三大喜劇王の中でキートンが一番好きであり「王」というよりは「喜劇の神様」って表現が似合うんじゃないかとさえ思ってるんですが……
その理由としては「映画の中に独自の世界を作り上げる事。そして、その世界を壊す事に関しては、キートンに並び得る者は存在しないから」ってのが挙げられるくらいです。
本作に関しても、その力量は如何無く発揮されており「ハリケーンに襲われた町」という特殊な舞台ならではの面白さと、巨大な建造物を破壊していくカタルシスとが、たっぷり描かれていたと思います。
冒頭部分で言及した「窓枠にスッポリ収まったキートン」の場面も凄いけど、個人的には「家が飛んできて潰されたかと思いきや、普通にドアを開けて中から出てくるキートン」って場面も、同じくらいお気に入りですね。
ここ、本当に「朝起きて、出かける為にドアを開けた」くらいの気軽さで、暴風雨なんて起こってないとばかりに平然と出てくるのがもう、たまんないです。
特異な状況ゆえの「普通の事を普通にやってる可笑しさ」を、これほど見事に表現出来るのは、正にキートンだからこそ。
クライマックスでは「水没する檻の中から父親を救い出す」って見せ場も用意されているし、主人公とヒロインが結婚する未来を「溺れた牧師を助けた」という形で示唆するのも、オシャレな終わり方でしたね。
そんな神掛かり的な後半に比べると、キートン監督ではない前半部分に関しては、凡庸な出来栄えに思えたりもするんですが……
「不器用ながらも息子を大切に想ってる父親」の存在など、魅力的な脇役も揃っているので、決定的な不満点って程では無かったです。
捕まった父を留置場から脱出させるべく、キートンがアレコレ画策する場面なんかは「刑務所モノ」「脱獄モノ」が好きな身としては、心躍るものがありましたし。
それだけでも「キートンが監督していない部分にも、確かに価値は有った」と言える気がします。
それと、本作の前半部分には、もう一つ興味深い場面があるんですよね。
美男子であるキートンが、どう見ても似合ってないチョビ髭を付けて登場し、それを剃る展開になる。
これってつまり「チャップリンのような口髭を付けた姿から、本来のキートンらしい姿に変身する」って形になってる訳で、非常に寓意的なものを感じます。
本作の監督であるチャールズ・F・ライズナーは、数々のチャップリン映画で助監督を務めた人っていうのも、何だか意味深。
そもそもキートンって、ロイドやチャップリンに比べると商業面では劣等生であり、本作でも多大な赤字を記録してたりするもんだから、周囲から「ロイドのような映画を撮るべき」「チャップリンのようなキャラクターを演じるべき」って要求されていたフシがあるんですよね。
「大学生」(1927年)や「結婚狂」(1929年)なんかは、それが顕著。
つまり、本作における「チョビ髭を剃る」シークエンスも、キートンなりの皮肉なユーモアが籠められていたんじゃないでしょうか。
映画を観てる自分としても「バスター・キートンはバスター・キートンであり、決して他の喜劇王と同じではない」という事を、確かに感じましたからね。
それは本作の後半部分、紛れもない「キートン映画」の魅力によって、力強く証明されていると思います。