64.“Starring Jennifer Lawrence Chris Pratt”
エンドロールのクレジットで、先ず表示されたのは主演俳優二人のクレジットだった。
それはハリウッド映画において大して珍しくないことのように思えるかもしれないが、往年の娯楽大作ならいざ知らず、昨今の映画において、「〜の主演映画である」という情報を、エンドロールでわざわざ真っ先に伝えてくる作品はあまり記憶にない。
製作陣が意図的にそのクレジットで表したかったことは、詰まるところこのSF超大作が貫いた“スタンス”であり、即ちこの映画が“スター・システム・ムービー”であることへのてらいのなさだと思う。
昨今の価値観に合わせるならば、“スター・システム”という姿勢は、安易に主演のスター俳優に頼っただけの映画だとも捉えられかねないため、極力避けるのが普通だ。
しかし、この映画は、主演俳優の絶大なスター性を臆面もなく全面に押し出し、美しさと格好良さを表現することに対しての「逃げ」がない。
結果として、美しいスター俳優同士の共演が、ハリウッドの古き娯楽大作にも通ずる堂々たるエンターテイメント性を醸し出していたと思う。
ジェニファー・ローレンスはすべてのシーンが尽くエロ……いや艶っぽいし、クリス・プラットは無精髭が伸びっぱなしだろうが尻を丸出しだろうが格好良い。それぞれの振る舞いがそれだけで娯楽要素になり得ている。
と、ここまでであれば、この映画は結局のところ今をときめくハリウッドスターの華やかさを追求しただけの作品で、ストーリー性には乏しい映画だと思われるかもしれない。
でも、実はそうではない。
“スター俳優の華やかさ”は、このSF映画が「娯楽超大作」としてのバランスを成立させるために必要不可欠な要素だったのだと確信する。
もしこの映画のキャスティングにおいて、もっと地味で堅い印象が“売り”の俳優をチョイスしていたならば、それはそれは重々しく破滅的な全く別物の映画に仕上がっていたことだろう。
なぜならば、このSF映画の持つ「罪と赦し」にまつわるストーリー性とテーマ性は、想定外に深く辛辣であるからだ。
もっと重苦しいキャスティングによって、このストーリーが孕む人間の業を深掘り、丸裸にしたならば、それはそれで傑作に成り得たかもしれない。
ただ今作の製作陣はそういう選択をしなかった。華やかなキャスティングによる娯楽性を優先したのだ。
そしてその選択は決して間違いではなかったと思える。
この物語が伝えるべき人生観と哲学性を表現しつつ、娯楽大作として様々な観点から楽しみがいのあるエンターテイメントに仕上がっている。
そしてそれは、主演の両ハリウッドスターが華やかさだけではなく、演技者として押しも押されもせぬ実力を備えているからこそ成し得ていることだ。
両者が演じたキャラクターの瞳にふいに垣間見える“狂気性”がそのことを雄弁に表している。
当初、“デートムービー”推しの安直な国内プロモーションを目の当たりにして、鑑賞意欲が大いに削がれたのだが、某映画評の冒頭で「賛否両論」という情報を聞くにつけ、一転して食指が動いた。
“賛否両論のSF映画”は、大概の場合観ておいて損はない。その持論は幸いにも的中した。
そして、結果として“デートムービー”としてのプロモーションはある意味的を射ているのだと思う。
このSF映画で描かれるストーリーは極めて特異な状況のように見えるが、実のところとても普遍的な男女関係の機微や不自由さを孕んでいる。
美しい二人の美しいデートシーンにうっとりすると同時に、男女関係における地獄のような居心地の悪さを感じることも必至。
この映画を共に観ることで、二人の付き合い方には波紋が広がることだろう。
それがデート中の二人にとって良い方向に繋がるか、悪い方向に繋がるかは知ったこっちゃないが、二人の将来を推し量る上では重要な「材料」になり得るだろう。
これこそ“デートムービー”と呼ぶに相応しいではないか。