349.奇妙奇天烈なストレンジワールドを描くという面白さ同時に、「誰か別の(有名な)人物になりたいと思ったことは無いか」、「自分とはいったい何者か」「本当の自分とは何か」のような哲学的な問い掛けに対する面白さが得られる良作。
登場人物も実にユニークだ。
ボケっぷりが素晴らしい社長から、言語障害の部長、デンジャラスな雰囲気のマキシン、性倒錯者のロッテそして人形使いのグレイグ。
どの人物も内面や性格がしっかり描かれていると感じる。
晩年のマルコヴィッチと結婚したのは、あの部長さんだろうか。
これだけでも何か社長の深い想いを感じるエピソードのような気がする。あのエロ話も少しは伏線があったということか。
一緒にマルコヴィッチに入った他の人は会話が通じないのではないかという気がするがそのあたりは気にしないでおきましょう。
映画で気になったシーンはもっとグレイグの孤独なり、苦しみなりを感じさせて欲しかったというところ。
人形師として人気が出たのは「グレイグとしての自分」の腕のおかげなのか、それともマルコヴィッチの人気のためなのか。
マキシンが結婚してくれたのはグレイグ自分自身としてなのか、それともマルコヴィッチとしてなのか。
このあたりはもっともっと苦悩するシーンは描けたと感じる。
確かに社長から、マルコヴィッチから出ていかないとマキシンを殺すと脅されたときに、「ここから出ていけばただのグレイグに戻る」と嘆いていてはいたが、ここはもっと掘り下げるべきポイントと感じる。
ここがまさに「自分とはいったい何者か」の答えになるべきところではないか。
「自分とはいったい何者か」がロッテの性倒錯の発覚ということで片付けられている感がしてもったいない。
あまり「穴」について深く考える必要はないとは思うが、器であるマルコヴィッチの身体が社長たちに乗っ取られれば、本体のマルコヴィッチはどこへ行ってしまうのだろうか。
そうなれば、あの女の子も44歳くらいでどこかへいなくなってしまうというのも何か哀しい話のような気がする。