1.前作『辺田部落』で、農民の暮らしそのものの記録にたどり着き、生活と労働とが互いを削りあっている不幸な近代(その象徴としての飛行場)を発見した小川は、その後「技術としての農業」を追って山形県に移り住む。彼が知ろうとしたのは手触りとして感じ取ることのできる「農業の楽しさ」であり、それが日本の「農業の衰滅」と同時進行で記録されていったところに、小川の後期作品群の凄味がある。『牧野物語・養蚕編』は、静かに養蚕の技術を追った記録で、何のイデオロギーも叫ばれていず、どう手間を掛けるとどういう効果があってそれが作り手にはどう楽しいか、ということを丹念に描いていくだけなのだが、かつて国の柱ともてはやされ、やがて見捨てられていった産業としての養蚕の歴史に思いを馳せないわけには行かない。で、これ、三里塚シリーズ7作目にして最終作。夏と冬の印象が強かったシリーズの最後は初夏である。描かれている内容は爽やかでもないのだけれど、気分として、ここには同じ農業をしているもの同士が久しぶりに再会した爽やかさのようなものを感じてしまう。あの鉄塔が倒される。田植えを中断して眺める農民たち。無念な気持ちはあるだろうけど、どこか超然とした気持ちもあるのではないか。すごく不謹慎な連想だとは思うが、なんとなくこの初夏の空気にふさわしいピクニックの気分すら感じられるのだ。機動隊によるガス弾の水平撃ちによって犠牲者が出る事件も起こる。しかし小川が一番心配するのは、そのガスが農作物にどのような害を及ぼしているか、ということだ。あるいは低空飛行する報道のヘリコプターの風圧がいかにスイカを傷めているかだ(思えばこのシリーズの一番最初のシーンは、機動隊によって踏み割られたスイカだった)。彼の関心は農業者としての興味に絞られていく。農業者ほど季節に敏感でなければならない者もないだろう。シリーズの最後に、さわやかな新緑の季節が置かれたのは悪くない。農業のスタートの季節。次の発芽に向けられた希望を、厳しい状況のなかからもかすかに感じたいという願いが、観客の中にも生まれてきてしまっているからだ。