1.《ネタバレ》 韓国が生んだ巨匠ポン・ジュノの最新作は、Netflixによる世界同時配信映画であるに相応しく、非常に触れやすく見やすいエンターテイメント性に富んだ楽しいアクション・アドベンチャーである……ように見えるが、勿論そんな映画ではない。
当然ながら、ポン・ジュノがそんな分かりやすく楽観的な映画を作るはずもない。
この作品は、おそらく、「食品」として肉を食べている地球上の人間総てにとって、居心地の悪い映画となることだろう。
この“居心地が悪い”とは、「気持ち悪い」とか「見ていられない」とかそういう類のものではない。
冒頭に記した通り、この映画はエンターテイメント性に溢れていて、愉快だし、高揚する。それは間違いない。
けれど、そういった映画としての「娯楽性」を感じた瞬間に、はたと気づく。
「あれ…、自分はこのシーンに対して楽しんでいい立場の人間ではないぞ……」
現実を突きつけられて、途端に居たたまれなくなる。
極めて「意地悪」な映画であり、だからこそ流石だと苦笑いをしつつ感嘆する。
不可思議な巨大生物と幼気な少女のハートウォーミングな交流シーンから、突如として、この世界の「食」が抱える闇と真理が、「肉採取機」のように容赦なく抉り出される。
その様は、あまりに残酷で無慈悲に見えるけれど、観客はそれを心の底から否定できない。
そして、映し出される描写が滑稽であるほどに、徐々に確実に笑えなくなってくる。
ティルダ・スウィントンが相変わらず演技派女優らしからぬぶっ飛んだ演技で「悪役」姉妹を一人二役で怪演している。
しかし、結果として、彼女たちは何も裁かれることはない。むしろきっちりと計画的に当初の目論見を成し遂げる。
何故ならば、彼女たちの悲願である“ビジネス”は決して悪事ではなく、現代社会の食文化の「理」そのものだからだ。
愛する“オクジャ”を救うために、身ひとつで巨大企業に挑んだ少女は、その「理」に跳ね返され、打ちのめされる。
彼女が唯一携えていた「現実」によって、すんでのところで“オクジャ”は救い出せたように見えるけれど、それは自分が愛する巨大な生物をついに「食品」として受け入れざるを得なかったことに他ならない。
そうして彼女は、おびただしい数の虚無と絶望に文字通りに覆い囲まれながら、暗い暗い帰路を辿る。
世界の食糧事情を解消するために「遺伝子操作」をすることは罪か?
それでは、美味しい食肉を生産するために「品種改良」をすることは罪ではないのか?
その身勝手で曖昧なラインが明確にならない限り、この映画の「居心地」は益々悪くなり続けるだろう。
そういうことを感じながら、今日も僕は、この世界の何処かで“作られた”肉を食べている。