20.2014年11月10日。日本映画史上最高の大巨星墜つ。
映画俳優高倉健の死に対し、喪失感は大きすぎる。ただ、彼が遺した205本の映画の殆どを、僕はまだ観られていない。
まだまだ高倉健の映画を観られることを、映画ファンとして幸福に思いたい。
高倉健のアメリカ映画出演作といえば、リドリー・スコット監督の「ブラック・レイン」の印象が強くその筆頭となりがちだが、それよりも15年も前に出演した今作のインパクトも中々のものだった。
「ザ・ヤクザ」というタイトルから、米国人が日本のヤクザ世界をモチーフに適当に作った“トンデモ映画”なんだろうと高を括っていたが、その認識は全くの間違いだったと言っていい。
確かに、日本人として少々呆気にとられる描写は多々ある。しかし、それらは製作者陣が決して適当に作っているものではなかったと思う。
日本の文化、その中でも取り分け“任侠映画”という文化に対しての多大な“憧れ”と“尊敬”の念が、全編に渡って匂い立つように強く伝わってくる。(待田京介の起用とか、分かりすぎている!)
結果的に映し出されていたものは、紛れも無い米国産の「仁侠映画」だった。
ラスト、高倉健演じる時代遅れの侠客が、仁義を貫くために“陰腹”を切ろうとする描写に驚いた。まさかアメリカ映画でそんな描写が観られるとは。
他にも“指詰め”に対する執拗な掘り下げなど、日本人でも少々引いてしまうある種マニアックな描写が続く。
それらを指して、リアリティがない等と言うことは、あまりにお門違いだ。
実際にそれが妄想であっても、ファンタジーであっても、それが欧米人が憧れ追求してくれた「仁侠映画」であれば、尊重されるべきだ。
描写が多少おかしかろうが、「仁侠映画」と「高倉健」、かつて日本中が愛した文化を、同様に愛しリスペクトしてくれているこの作品を、この国の映画ファンとして否定できるはずがない。
米国映画だろうとなんだろうと、あくまで「高倉健」のままで存在する俳優の立ち振舞に惚れ惚れする。
今でこそ、世界で活躍する日本人俳優は多いけれど、スター俳優としての存在感そのままで通用した俳優は、やはりこの人しかいない。
高倉健という俳優が、この国に存在したということを、改めて誇りに思う。