36.「adaptation」には、①適合、適応、順応という意味と②改訂、脚色という意味がある。
まさにこの映画はこの二つを兼ね備えた映画なんだろうと思う。
原作「蘭に魅せられた男」に書かれたストーリーが進行すると同時に、「蘭に魅せられた男」を書くために取材するオーリアンのストーリーも進行する。
そして「蘭に魅せられた男」の脚本を頼まれたカウフマンのストーリーや妄想とともにカウフマンが描く脚本の内容(人類誕生等)も映画の中に描かれている。
この映画は二重、三重、四重へと広がりを見せながら、それぞれが変化、適合しながらストーリーが見事に進行していく点に面白さを感じる。
また、この映画は現実を描いていそうでありながら、全て脚色の世界の中にある点も面白い。
もちろんドナルドなんて兄弟はいないし、「3」も存在しない。
確かチャーリーはハゲてもなければデブでもなかったはずだ。
実在するはずのラロシュも恐らくワニに食われたりもしないだろう。
これらはマッキー(存在するのか?)が言うように全てはラストで観客を唸らせるための脚色にすぎない。
このラストには本当に唸らされる。
冒頭に語っていた「ドラッグ、銃撃、カーチェイスや立派な教訓を学ぶような映画にはしたくない」と語っていたカウフマンの話が見事に伏線になっていてそれがラストに繋がっている。もちろんハリウッド的な映画に皮肉を込めて。
しかし、確かにこの映画では立派な教訓は学べないかもしれないが、「愛することは自由」という愛の大切さや人生への一縷の希望を感じさせた小さな教訓はチャーリーは描いてくれたなあと感じる。
ほかにも「現実はたんたんとしているか」というマッキーの言葉にはドキッとさせられる。
この映画の中に描かれた世界は一応脚色された世界であるが、「映画の中の世界」と「現実の世界」にはそれほどの差があるのかどうか色々考えさせられたところもある。
実在の人物を脚色した映画であるが、ここに描かれた人物と実在の人物もそれほど差は無いのではないかという気がする。オーリアンの孤独、カウフマンの神経質な自己嫌悪など、現実社会に生きる「人間」の鋭い現実を描いている気がしてならない。