15.《ネタバレ》 オデッサで想起するのは、ソ連映画「戦艦ポチョムキン」。ロシア革命の引き金となった兵士の叛乱事件を描いた歴史的作品。この映画はそのオデッサから逃れてきたギリシャ人の一団の中にいる、未だ幼い戦災孤児の少女、エレニの物語には違いないが、叙事詩としての側面が濃厚。1919年が起点となっている他、特にこの映画の中で説明はないものの、オデッサからの逆難民であると冒頭にある様に、ロシア革命の余波から戦乱に拡大した頃の時代背景を基に描いていて、アンゲロプロスの一貫したテーマ、悲劇的歴史に翻弄されるギリシャ人の姿を描いている。
この後、画面は思春期の少女に成長したエレニが、付き添いと共に小船で定着後の村に戻るシーンにとぶ。会話の内容から未婚のエレニが双子を出産、否応なく里子に出され、失意からベッドに打ち拉がれている様子が映し出される。それから更に話は跳び、妻を亡くした村の有力者で養父でもあるスピロスが、エレニを妻に迎え入れる婚姻の準備がエレニの意思などお構いなしに進行していて、それに危機感を抱いたスピロスの息子、アレクシスとエレニが示し合わせ、ウエディング姿のまま手に手を取り合って出奔する。
逃げたエレニを追って、座の一員として居た劇場にまで現れたスピロスから再び逃避行をする羽目に。スピロスはアレクシスにとっては実父、エレニにとっては養父で夫という面倒な関係にある。ここまでの話は結構ドロドロとした下世話な展開なのに、主要人物を捉えるカメラ視点が常にロングで撮られているので、エレニとアレクシスの不幸なカップルにさほど感情移入がし難い。情動表現を嫌うロベール・ブレッソンの映画と違い、エレニの情緒は演技で普通に表現しており、哀感の涙が頬を伝って落ちている筈のショットですら、顔のクローズアップは意図的に外されている。
映画を観る観客とエレニの間に、アンゲロプロスの撮影は常に一定の距離的空間で隔たれているので、観る側としては感情移入することなく客観的にエレニの不幸を観てしまう心理状態に置かれる。アンゲロプロスの撮影にもズームアップが無いわけではないが、主人公でさえ、殆ど顔のアップは避けられている。せいぜい遠景に広範に撮られていた群集や風景に緩慢なズームアップで僅かに寄る程度のもの。何故にこうした手法に固執するか解らないが、ギリシャ劇場の伝統的舞台劇を観る観客の視点に基準したものかも。
アンゲロプロスの映画にいつも思うのは登場人物達に生活感(臭)がしない事。養蜂家であったり詩人だったり、旅芸人や本作の場合は旅一座の音楽団という設定。どれも定住せず流離う人々だ、流転・流浪を余儀なくされた魂の象徴とでも言いたげ。いずれにせよ労働者階級を描くことはせず、アンゲロプロスの映画はひたすら芸能で生きる人々や、何を生業としているのか判然としない人々を描く事が多い。
憔悴し横臥したエレニがうわ言のように、様々な色の制服に拘置されたと何度も同じ台詞を繰り返すのは、ギリシャの近現代史に疎い外国人には意味が伝わり難い。内戦や様々な外国軍の占領支配や、干渉を受けた負の歴史を簡易に台詞で語らせているのは解るが、3時間近くの長い映画なら映像でそれを観せ、観客に解らせるべきではないかと思う。
本作に顕著な水辺の風景シーンは、全てのものを倒立像として映しだし、官能的なまでに美しいのだが、タルコフスキーの癒しの水と同じ様に、水に何らかのメッセージ性を込めているのだろう。冒頭からラストシーンまで水尽くしで、常に彼らの傍には水面が静かな佇まいでを観せ、人の世の移ろいに対して、悠久とした時間、抗えない運命・歴史を感じさせた。ラストで遺体となった息子の傍らで慟哭するエレニの背景も水辺なのも印象的。